序説・悟りの定義

2021年4月12日悟りという目標転迷開悟・見道

 

四向四果(しこうしか)・四双八輩(しそうはっぱい)

四向四果 (しこうしか)とは、原始仏教や部派仏教における修行の階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと。四双八輩ともいう。果とは、到達した境地のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。

原始仏教・部派仏教では、阿羅漢果は修行者の到達しうる最高位であり、それ以上に学ぶ必要が無いので阿羅漢果を無学位といい、阿羅漢果に達した者を無学という。四向四果のうちで阿羅漢果未満の預流果・一来果・不還果を有学位といい、阿羅漢果未満の聖者(七輩)を有学という。

Wikipedia 四向四果

 

 

預流向の公的な見解

欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じつつあり、苦・集・滅・道の四諦(したい、四聖諦とも)を観察する段階です。ここから悟りの道(見道・けんどう)が始まります。

 

預流向についての私見

何度も輪廻転生を繰り返している為、積業が深く、酷い環境や厳しい条件の下に生まれる事が多いようです。根は善良な人物ばかりですが、探究心が極めて旺盛であり、探求の為なら何でも切り捨てる危険な傾向を持ち合わせています。

例外なく強固な自我と確かな信念を持っていますが、それが仇となって道を踏み外す事もあります。視野が広く、何に対してもあらゆる可能性について慎重に考える為、苦悩の深い一生になります。

 

 

預流果の公的な見解

見道の完成であり、無我を体験する事で、五下分結と呼ばれる5つの煩悩の内、有身見、疑、戒禁取(三結)の煩悩を滅しています。預流果に悟ると、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちる事は無くなり、欲界と天界を最大で七回輪廻転生する内に、阿羅漢果に悟ると言われています。

 

預流果についての私見

いわゆる小悟ですが、光明体験はありません。悟りの大楽の正体を知り、認識や思考の悪癖を見極めているので、経典の大半を読み解く事が可能です。しかし、自分が何を悟ったのかを上手く説明する事が出来ないという特徴がある為、偽覚者呼ばわりされる事が多いようです。

無師独悟の場合は、それまで只管(ひたすら)に真実のみを探求してきた為、世間に疎く、対人関係や自身の人間性の向上を軽んじる傾向があります。その為、貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の邪見に囚われて、道を誤る事もあります。

預流果に悟ったとしても、覚者としては全くの未熟者であり、他人を導く力などはありません。自らの悟りに執着して思い上がり、正師の導きや道友の言葉に耳を傾けようとしなければ、場合によっては悟る前より酷い精神状態になります。

 

 

一来向の公的な見解

四聖諦を観察する事を繰返していく「修道」の段階です。欲界の修道の煩悩を9種に分類したうちの6種の煩悩を断じつつあります。

 

・一来向についての私見

この階梯に入ると自己への執着心が極端に薄くなるので、エゴの叩き台たる人間社会では苦労します。学校ではイジメに遭い易くなり、社会に出ると悪党に利用されたりしますが、それは次の階梯に登る為に必要な事です。

また、今生で預流果に悟った人が一来向に入るには、正師の導きが必要不可欠です。何故なら、預流果の悟りは薄っぺらなので、自分では次に何をするべきかが分からないからです。

 

 

一来果の公的な見解

欲界における九種類の煩悩の内6つを断ち切る事で一来果に悟る事となり、五下分結の貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の煩悩が弱まります。一来果に悟った者は、修行を完成させる為に、もう一度だけ人間に生まれ変わると言われています。

 

・一来果についての私見

本当の意味での小悟です。預流果と同様、光明体験はありません。預流果より一段上の無我を体験しており、貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに・怒り)の原因が心の働きにあると見極めています。

この階梯に悟った者は、自身が如何なる真理を悟り得たかを詳細に分析し、説明する事が出来ます。その為、因縁生起の道理に明るくなり、大乗仏教における「無生」などの難解な概念や、禅宗において難透と言われる公案を解くほどの優れた優れた智慧を発揮するようになります。

また、独自の境地を切り拓くだけの力量を持っているので、場合によっては探求者の集団を率いる事もあります。しかし、大抵の人は探究心が仇となってマッド・サイエンティスト化するので、指導者としての力量は期待出来ません。

 

 

不還向の公的な見解

一来果で断じきれなかった五下分結の貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の煩悩を、完全に断ち切ろうとする階梯です。

 

・不還向についての私見

過去生における悟りの体験によって悪業を断ち、法施などの布施行による積善があるので、生まれつき環境や能力に恵まれています。一来向と同様に生まれつき自己への執着心が極端に薄く、見ている方が心配になるほど自分らしく自由に生きて、やがて人生に行き詰まるのがお決まりのパターンです。

OSHOラジニーシの言う「ゾルバ・ザ・ブッダ」的な人物ですが、全く苦悩しない訳ではありません。因みに、今生で一来果に悟った人が不還向に入るには、正師の導きか、かなりの勉強が必要です。

 

 

不還果の公的な見解

五下分結の貪欲と瞋恚を断じ、欲界・天界には二度と生まれないとされています。

 

・不還果についての私見

いわゆる大悟者であり「全ては自分」という光明体験を経ていますが、まだ悟りの究極には至っていません。深い無我の体験と、深遠なる悟りの世界を垣間見て五下分結は断たれているものの、五上分結(色貪・ 無色貪・慢・掉挙・無明)の煩悩は残っています。

基本的に高い人徳の持ち主ですが、時には人間らしい過ちも犯します。悟りの道の指導者になるには、最低でも不還果に悟っている必要があります。仏典では二度と人間に生まれ変わることは無いとされていますが、真偽の程は定かではありません。

 

 

阿羅漢向の公的な見解

真の悟りを得る為に、五上分結の煩悩を断つ修行をする者です。

 

・阿羅漢向についての私見

何処までも自分らしく生き抜く強者や、誰も敵わない生粋の超人としてこの世に生を受けます。敵は常に己自身であり、初めから他人など眼中にありません。自身の生存上の問題を解決し終えると、生死や存在についての哲学的な難問に挑み始め、その結果として人生に行き詰まります。

それまでは負け知らずで生きてこれるので、正師に就いて修行をしないと情け容赦の無い苛烈な性格になったり、敗者や弱者の気持ちが分からない人になるようです。今生において不還果から阿羅漢向に入る人も、かなりの自信家が多いように見受けられます。

 

 

阿羅漢果の公的な見解

阿羅漢(アルハット)は仏教における最高の悟りを得た「非在なるもの」であり、尊敬されるに相応しい聖者です。五下分結・五上分結の煩悩を完全に滅却している為、その智慧は深く、人間性も完成しています。仏弟子は皆、この境地を目指して修行します。

 

・阿羅漢果についての私見

本当の意味での大悟であり、真の光明体験を経て大楽に回帰しています。肉体的には健康であっても、心は虚無・虚空に住する、事実上の死人です。

半神半人の真人間であり、地球の代弁者ですが、菩薩としての修行をしないと人間性に問題が残り、その結果、本当にしたい事と思った事が出来ずに生命が終わってしまう事も。

無師独悟にて阿羅漢果に悟った者を「辟支仏(びゃくしぶつ)」と言うのですが、少々クセが強く、近寄りがたい人物が多いようです。

 

 

四向四果の唯識学的な見解

大乗仏教には、あらゆる存在が八種類の「識」によって成り立つと考える「唯識」という説があります。この八種類の「識」は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感と、いわゆる表層意識、そして二つの深層意識で成り立っています。

この八種の「識」について文章で説明するのは難しいので、下記の図を作成しました。この図は表層意識と深層意識の境界に焦点を当てて、心理学の用語を当て嵌めたものです。

 

 

表層意識は人としての個別性(エゴ)を有していますが、深層意識から自己ならぬ大いなる自己(セルフ)という自己認識になります。また、表層意識と深層意識の間には自我境界線があり、一般人は表層意識に「存在の主軸」を置いています。

一般人は肉体と脳の記憶、表層意識と深層意識思考がゴチャマゼの状態にありますが、坐禅・瞑想によって深層意識を垣間見る事が出来るようになります。そして第六識が第七識との間にある自我境界線を突破して「存在の主軸」が深層意識に移行する事を初歩の悟り(預流果)と言います。

深層意識に「存在の主軸」が移行すると、肉体、五感、記憶などの個別性(エゴ)を構成する要素との融合を果たした第七識を、より高次の自己である第八識(阿頼耶識)が見ている状態になります。これが悟りの歓喜・大楽の正体であり、自己という束縛からの解放・解脱です。

 

第七識と第八識の間にも曖昧ながら境界線があり、その境界線を突破して意識の主軸が第八識に達する事を一来果と言います。それ以降は、より高次の自己である第九識(阿摩羅識)が第八識を見ている状態になります。

第八識は世界の種子である為、一来果に悟った人は世界と心の謎を解き明かし、創造主の視点を持つに至ります。

第八識と第九識の間にも曖昧な境界線が存在し、その境界線を突破して意識の主軸が第九識に移行する事を不還果と言います。その第九識に個別性の全てを還元する事を阿羅漢果と言い、それは究極の悟りであり修行の完成を意味します。

 

表層意識は多様性と可能性の世界なので、高みに昇れば登るほど複雑になっていきますが、深層意識はその逆で、深みに達すれば達するほどシンプルになっていきます。

表層意識と深層意識を隔てている自我境界線は、何らかの理由を元に一点突破する必要があるものです。そうするだけの確固たる理由さえあれば、人間ならば誰でも深層意識に主軸を移す(悟る)事が可能です。

 

 

頓悟と漸悟

頓悟(とんご)とは一発で阿羅漢果に悟る事を言い、漸悟(ぜんご)は段階的に悟りが深まっていく事を言います。釈迦世尊は四向四果を説き「悟りは徐々に完成する」と説きましたが、当の本人はいきなり阿羅漢果(無上正等覚)に達しています。

悟りの体験は個人差が大きく、仏典を根拠としてロジカルに考えると混乱してしまうので、個人的にはあまり白黒つけようとしない方が良いと思っています。

 

 

曹洞宗「大悟見性(たいご けんしょう)」の解釈

管理人は「一発頓悟だと大悟と見性はイコールとなり、段階を踏む漸悟だと見える性(さが・本性)も変わる」という意味だと思っています。

 

 

灰身滅知(けしんめっち)

灰身滅知は上座部仏教が理想とする境地ですが、大乗仏教からは「小乗の悟り」と批判されています。個人的には「煩悩を滅し尽くせば悟れる」という見解と、「無我を体験すれば煩悩が滅する」という見解の衝突に思えます。

 

 

涅槃(ねはん)の定義

悟りを開いて真理を会得すると、迷妄を根拠とする悩みが消えます。しかし、悟りへの執着心を捨て去るまでは、まるで悟りだけが残ったかのように思えてしまうのです。もちろんそれは迷妄に過ぎず、葉っぱの裏表のうち表だけがあると言っているようなものです。

此あれば彼あり、此なくば彼なし、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。この世の全ては因縁によって生じるものであって、悟りと迷いの関係も例に漏れません。悟りを捨てて(超えて)至る二元対立の無い静寂の境地こそ、涅槃(ニルヴァーナ)と呼ぶに相応しいです。

 

 

無我・縁起・空性

「我(自性)」が存在すると見做せば、相対的に「無我」という真理が生じます。我とは即ち「実体」であり、人の認識はあらゆるものに実体があると見做すように出来ています。しかし、それは煩悩(有身見)に過ぎず、実体など最初から存在しません。この事実を「空性」と言います。

例えば、日中の空は青く、夕方の空は赤く、夜空は黒く染まりますが、本当の空の色(実体)というものは存在しません。しかし、実体は無くとも「我」を構成する物質や要素は存在している為、我々は変わりゆく空の色を認識する事が出来ます。

また、人体を細かくパーツ毎に分けていくと、どれも「我に非ず(非我)」という結論に至ります。我思う故に我ありと言いますが、我という意識は知覚するのみで個別性の根拠にはなり得ません。全てのものは「そう見做す事も出来る」と言うだけで、絶対に正しい見解(実体)など存在しないのです。

闘争は「これは自分のものだ」とか「自分こそが正しい」と主張する所から始まるものであり、全ての迷いは我見から生じていると悟れば、それ以降は闘争する理由が無くなります。

 

 

「覚醒」について

スピリチュアル界隈における「覚醒」の定義は曖昧なので、便宜上、当サイトでは預流果から一来果までを「覚醒」と呼称し、不還果から阿羅漢果までを「悟り」と定義しています。一応、そのように定義はしているものの、基本的に私が「覚醒」という言葉を使う事はありません。

 

2021年4月12日悟りという目標転迷開悟・見道

Posted by 清濁 思龍