序説・悟りの定義

2020年9月13日預流果を目指す人達へ

 

四向四果・四双八輩

四向四果 (しこうしか)とは、原始仏教や部派仏教における修行の階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと。四双八輩ともいう。果とは、到達した境地のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。

原始仏教・部派仏教では、阿羅漢果は修行者の到達しうる最高位であり、それ以上に学ぶ必要が無いので阿羅漢果を無学位といい、阿羅漢果に達した者を無学という。四向四果のうちで阿羅漢果未満の預流果・一来果・不還果を有学位といい、阿羅漢果未満の聖者(七輩)を有学という。

Wikipedia 四向四果

 

 

預流向の公的な見解

苦・集・滅・道の四諦(したい、四聖諦とも)を観察する段階。見道の始まり。欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じつつある。

 

預流向についての私見

何度も輪廻転生を繰り返している者である為、積業が深く、酷い環境や厳しい条件の下に生まれる事が多い。探究心が旺盛で、探求の為なら何でも切り捨てるが、根は善良。例外なく強固な自我と確かな信念を持っているが、それが仇となって道を踏み外す事もある。視野が広く、何に対してもあらゆる可能性について慎重に考える為、苦悩が深い。基本的にしんどい人生。

 

 

預流果の公的な見解

無我を体験する事で、五下分結と呼ばれる5つの煩悩の内、有身見、疑、戒禁取(三結)の煩悩を滅している。見道の完成。預流果に悟ると、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちる事は無くなり、欲界と天界を最大で七回輪廻転生する内に、阿羅漢果に悟ると言われている。

 

預流果についての私見

いわゆる小悟だが、光明体験は無し。悟りの大楽の正体を知り、認識や思考の悪癖を見極めているので、経典の大半を読み解く事が可能。しかし、自らが何を悟り得たかを説明する事が上手く出来ないという特徴がある。

覚者としては未熟な為、貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の邪見に囚われて道を誤る事もある。自らの悟りに執着して、正師の導きや道友の言葉に耳を傾けなければ、場合によっては悟る前より酷い精神状態になる。

 

 

一来向の公的な見解

四聖諦を観察する事を繰返していく修道の段階。欲界の修道の煩悩を9種に分類したうちの6種の煩悩を断じつつある

 

・一来向についての私見

概ね預流向と同じだが、生まれつき自己への執着心が薄いという特徴を持つ。しかしその特徴は、エゴの叩き台たる人間社会ではマイナス要因となり、学校ではイジメに遭ったり、社会に出ては悪党に利用されるなどして酷く苦しむ。今生で預流果に悟った人が一来向に入るには、正師の導きが必要不可欠。

 

 

一来果の公的な見解

欲界における九種類の煩悩の内6つを断ち切り、五下分結の貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の煩悩が弱まっている。一来果に悟った者は、修行を完成させる為に、もう一度だけ人間に生まれ変わると言われている。

 

・一来果についての私見

本当の意味での小悟。預流果と同様に、光明体験は無い。預流果より一段上の無我を体験しており、貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに・怒り)の原因が心の働きにあると見極めている。大乗仏教における「無生」などの難解な概念や、禅宗における難透と言われる公案を解くほどの智慧を有する。

自身が如何なる真理を悟り得たかを分析し、説明する事が出来る。因縁生起への理解が深く、人知を越えた智慧を発揮する。観察力が高く、独自の境地を切り拓くほどの力量を持つが、探究心が仇となってマッドサイエンティストのようになる事も。まだまだ指導者となるには力不足。

 

 

不還向の公的な見解

一来果で断じきれなかった残りの3種の煩悩

 

・不還向についての私見

悟りの体験によって悪業を断ち、法施などの布施行による積善がある為、生まれつき環境や能力に恵まれている。一来向と同様に生まれつき自己への執着心が極端に薄く、見ている方が心配になるほど自分らしく自由に生きて、その末に行き詰まるのがお決まりのパターン。

OSHOラジニーシの言う「ゾルバ・ザ・ブッダ」的な人物だが、全く苦悩しない訳では無い。今生で一来果に悟った者が不還向に入るには、正師の導きか相応の勉強が必要。

 

 

・不還果の公的な見解

、五下分結の貪欲と瞋恚を断じ、欲界・天界には二度と生まれないとされている。

 

・不還果についての私見

いわゆる大悟者で光明体験もしているが、まだ悟りの究極には至っていない。深い悟りの世界を垣間見て五下分結は断たれているものの、五上分結(色貪・ 無色貪・慢・掉挙・無明)の煩悩は残っている。

基本的に高い人徳の持ち主だが、時には人間らしい過ちも犯す。悟りの道の指導者になるには、最低でも不還果に悟っている必要がある。仏典では、もはや人間に生まれ変わることは無いとされているが、真偽の程は定かでは無い。

 

・阿羅漢向の特徴

何の因果か、強者としてこの世に生を受け、何処までも自分らしく逞しく生き抜いてゆく。敵は常に己自身であり、他人など眼中に無い。言わば生粋の超人。自身の生存上の問題を解決し終えると、生死や存在についての哲学的な難問に挑み始め、その結果として人生に行き詰まる。それまでは負け知らずで生き抜いてこれるので、正師に就いて修行をしないと、情け容赦の無い苛烈な性格になったり、敗者や弱者の気持ちが分からない人になったりする。今生において不還果から阿羅漢向に入る人も、自信家が多いように見受けられる。

 

・阿羅漢果の特徴

本当の意味での大悟であり、真の光明体験を経て大楽に回帰した「非在」なる者。肉体は健康な状態を保っていても、心は虚無・虚空に住する事実上の死人。半神半人の真人間であり、地球の代弁者。無師独悟にて阿羅漢果に悟った者を「辟支仏」と言うが、菩薩としての修行をしないと人間性に問題が残る。その結果、本当にしたい事と思った事が出来ずに生命が終わってしまう。「非在」であるが故に、生まれ変わる事も無いとされているが、真偽の程は定かでは無い。

 

 

頓悟と漸悟

頓悟とは一発で阿羅漢果に悟る事を言い、漸悟は段階的に悟りが深まっていく事を言う。釈迦世尊は四向四果を説き「悟りは徐々に完成する」と説いたが、当の本人はいきなり阿羅漢果(無上正等覚)に達している。

悟りの体験は個人差が大きく、仏典を根拠としてロジカルに考えても混乱するだけなので、あまり白黒つけようとしない方が良い。

 

 

曹洞宗「大悟見性」の解釈

曹洞宗の人間は、何処までも道元禅師の教えを信じるべし。それ以外の宗派の者は、そういう悟り方もあると割り切った方が良い。因みに管理人は、一発頓悟だと大悟と見性はイコールとなり、段階を踏む漸悟だと「見える性(本性)」も変わるものと解釈している。

 

 

灰身滅知

上座部仏教が理想とする境地。大乗仏教からは「小乗の悟り」と批判されている。個人的には、煩悩を滅し尽くせば悟れるという見解と、無我を体験すれば煩悩が滅するという見解の衝突に思える。

 

 

涅槃の定義

悟りを開くと迷いは消えるが、悟りへの執着心があると、悟りだけが残ったように思える。だがそれは、葉っぱの裏表のうち表だけが残ったと言うに等しい。

此あれば彼あり、此なくば彼なし、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。全ては因縁によって生じるものであり、悟りと迷いもまた例に漏れない。悟りを捨てて(超えて)至る二元対立の無い静寂の境地こそ、涅槃(ニルヴァーナ)と呼ぶに相応しい。

 

 

無我・縁起・空性

我が存在すると見做せば、無我という真理が生じる。我とは即ち「実体」であり、人は皆あらゆるものに実体があると見做している。しかし、それは煩悩(有身見)に過ぎず、実体など存在しない。その事実を指して「空性」と言う。

実体は無くとも、我を構成する物質や要素は存在している。空の色は青や赤や黒に変わるが、本当の空の色(実体)は存在しない。人体を細かくパーツ毎に分けていくと、どれも「我に非ず(非我)」という結論に至る。

我思う故に我ありというが、我という意識は知覚するのみで個別性の根拠にはなり得ない。全てのものはそう見做す事も出来ると言うだけで、絶対に正しい見解(実体)など存在しない。

闘争は「これは自分のものだ」とか「自分こそが正しい」と主張する所から始まるものであり、全ての迷いは我見から生じていると悟れば、それ以降は闘争する理由が無くなる。

 

 

「覚醒」について

精神世界及びスピリチュアル界隈における「覚醒」の定義は曖昧である為、当サイトでは預流果から一来果までを小悟や覚醒と呼称し、不還果から阿羅漢果までを大悟と定義する。

因みに、悟りの体験は個人差が大きいので、あの人の体験は本物だとか、あの人のは違うとか言う事には、殆ど意味が無い。悟りとは即ち「無我の体験」であり、それ以外のものまで悟りに含めてしまうと、悟りの定義まで変える事になるので、訳が分からなくなってしまう。

 

2020年9月13日預流果を目指す人達へ

Posted by 清濁 思龍