私説・悟りの定義

2019年9月9日雑話録

 

四向四果・四双八輩

凡夫→ 預流向→ 預流果→ 一来向→ 一来果→ 不還向→ 不還果→ 阿羅漢向→ 阿羅漢果

 

・預流向の特徴

何度も輪廻転生を繰り返している為、積業が深く、酷い環境や厳しい条件の下に生まれる事が多い。探究心が旺盛で、探求の為なら何でも切り捨てるが、根は善良。例外なく強固な自我と確かな信念を持っているが、それが仇となって道を踏み外す事もある。視野が広く、何に対してもあらゆる可能性について慎重に考える為、苦悩が深い。基本的にしんどい人生。

 

・預流果の特徴

いわゆる小悟だが、光明体験は無し。無我と言う真理の一端を垣間見た事で、五下分結と呼ばれる5つの煩悩の内、有身見・擬・戒厳取見(三結)の煩悩が断たれている。預流果に悟った者は、欲界と天界を最大で七回輪廻転生する内に、阿羅漢果に悟ると言われている。悟りの大楽の正体を知り、認識や思考の悪癖を見極めているので、経典の大半を読み解く事が可能。しかし、自らが何を悟り得たかを説明する事は、上手く出来ない。五下分結の内、貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の原因を見極めていないので、邪見に囚われて道を誤る事がある(いわゆる天狗道)。正師の導きや道友の言葉に耳を傾けなければ、場合によっては悟る前より酷い精神状態になるが、それでも悟りの道から外れる事は無い。

 

・一来向の特徴

概ね預流向と同じだが、生まれつき自己への執着心が薄いという特徴を持つ。しかしその特徴は、エゴの叩き台たる人間社会ではマイナス要因となり、学校ではイジメに遭ったり、社会に出ては悪党に利用されるなどして酷く苦しむ。今生で預流果に悟った人が一来向に入るには、正師の導きが必要不可欠。

 

・一来果の特徴

本当の意味での小悟。預流果と同様に、光明体験は無い。預流果より一段上の無我を体験しており、五下分結の三結はもちろん、貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに・怒り)の原因が心の働きにあると見極めている。大乗仏教における「無生」などの難解な概念や、難透と言われる公案を解くほどの智慧を有する。自身が如何なる真理を悟り得たかを分析し、説明する事が出来る。因縁生起への理解が深く、人知を越えた智慧を発揮する。観察力が高く、独自の境地を切り拓くほどの力量を持つが、探究心が仇となってマッドサイエンティストのようになる事も。色んな意味で、指導者となるには力不足。

 

・不還向の特徴

悟りの体験によって悪業を断ち、法施などの布施行による積善がある為、生まれつき環境や能力に恵まれている。一来向と同様に生まれつき自己への執着心が極端に薄く、見ている方が心配になるほど自分らしく自由に生きて、その末に行き詰まるのがお決まりのパターン。OSHOラジニーシの言う「ゾルバ・ザ・ブッダ」的な人物だが、全く苦悩しない訳では無い。今生で一来果に悟った者が不還向に入るには、正師の導きか相応の勉強が必要。

 

・不還果の特徴

いわゆる大悟者で光明体験もしているが、まだ悟りの究極には至っていない。深い悟りの世界を垣間見て五下分結は断たれているものの、五上分結(色貪・ 無色貪・慢・掉挙・無明)の煩悩は残っている。基本的に高い人徳の持ち主だが、時には人間らしい過ちも犯す。悟りの道の指導者になるには、最低でも不還果に悟っている必要がある。仏典では、もはや人間に生まれ変わることは無いとされているが、真偽の程は定かでは無い。

 

・阿羅漢向の特徴

何の因果か、強者としてこの世に生を受け、何処までも自分らしく逞しく生き抜いてゆく。敵は常に己自身であり、他人など眼中に無い。言わば生粋の超人。自身の生存上の問題を解決し終えると、生死や存在についての哲学的な難問に挑み始め、その結果として人生に行き詰まる。それまでは負け知らずで生き抜いてこれるので、正師に就いて修行をしないと、情け容赦の無い苛烈な性格になったり、敗者や弱者の気持ちが分からない人になったりする。今生において不還果から阿羅漢向に入る人も、自信家が多いように見受けられる。

 

・阿羅漢果の特徴

本当の意味での大悟であり、真の光明体験を経て大楽に回帰した「非在」なる者。肉体は健康な状態を保っていても、心は虚無・虚空に住する事実上の死人。半神半人の真人間であり、地球の代弁者。無師独悟にて阿羅漢果に悟った者を「辟支仏」と言うが、菩薩としての修行をしないと人間性に問題が残る。その結果、本当にしたい事と思った事が出来ずに生命が終わってしまう。「非在」であるが故に、生まれ変わる事も無いとされているが、真偽の程は定かでは無い。

 

 

頓悟と漸悟

頓悟とは一発で阿羅漢果に悟る事を言い、漸悟は段階的に悟りが深まっていく事を言う。釈迦世尊は四向四果を説き「悟りは徐々に完成する」と説いたが、当の本人はいきなり阿羅漢果(無上正等覚)に達している。悟りの体験は個人差が大きく、仏典を根拠としてロジカルに考えても混乱するだけなので、あまり白黒つけようとしない方が良い。

 

曹洞宗「大悟見性」の解釈

曹洞宗の人間は、何処までも道元禅師の教えを信じるべし。それ以外の宗派の者は、そういう悟り方もあると割り切った方が良い。因みに管理人は、一発頓悟だと大悟と見性はイコールとなり、段階を踏む漸悟だと「見える性(本性)」も変わるものと解釈している。

 

灰身滅知

上座部仏教が理想とする境地。大乗仏教からは「小乗の悟り」と批判されている。個人的には、煩悩を滅し尽くせば悟れるという見解と、無我を体験すれば煩悩が滅するという見解の衝突に思える。

 

涅槃の定義

悟りを開くと迷いは消えるが、悟りへの執着心があると、悟りだけが残ったように思える。だがそれは、葉っぱの裏表のうち表だけが残ったと言うに等しい。此あれば彼あり、此なくば彼なし、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。全ては因縁によって生じるものであり、悟りと迷いもまた例に漏れない。悟りを捨てて(超えて)至る二元対立の無い静寂の境地こそ、涅槃(ニルヴァーナ)と呼ぶに相応しい。

 

無我・縁起・空性

我が存在すると見做せば、無我という真理が生じる。我とは即ち「実体」であり、人は皆あらゆるものに実体があると見做している。しかし、それは煩悩(有身見)に過ぎず、実体など存在しない。その事実を指して「空性」と言う。実体は無くとも、我を構成する物質や要素は存在している。空の色は青や赤や黒に変わるが、本当の空の色(実体)は存在しない。人体を細かくパーツ毎に分けていくと、どれも「我に非ず(非我)」という結論に至る。我思う故に我ありというが、我という意識は知覚するのみで個別性の根拠にはなり得ない。全てのものはそう見做す事も出来ると言うだけで、絶対に正しい見解(実体)など存在しない。闘争は「これは自分のものだ」とか「自分こそが正しい」と主張する所から始まるものであり、全ての迷いは我見から生じていると悟れば、それ以降は闘争する理由が無くなる。

 

 

「覚醒」について

精神世界及びスピリチュアル界隈における「覚醒」の定義は曖昧である為、当サイトでは預流果から一来果までを小悟や覚醒と呼称し、不還果から阿羅漢果までを大悟と定義しておく。仮に誰かから覚醒の定義が間違っていると言われたとしても困る。もし異論があるのなら、四向四果を超える悟りの定義をして、多くの人々を納得させてからにして頂きたい。

因みに、悟りの体験は個人差が大きいので、あの人の体験は本物だとか、あの人のは違うとか言う事には、殆ど意味が無い。悟りとは即ち「無我の体験」であり、それ以外のものまで悟りに含めてしまうと、悟りの定義まで変わってしまい、訳が分からなくなるという事だけは先に申し上げておく。

 

管理人からのお願い

この記事を面白いとか、興味深いとか、参考になったと思ったなら、下記リンクバナーをクリックしてください。今後の参考に致します。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悟り・真理へ

2019年9月9日雑話録

Posted by 清濁 思龍