禅病や魔境について

2020年6月22日2019年

 

これでも坐禅と言えるのか?

管理人の朝は早いです。AM3時~6時頃に起床して、顔を洗い、お茶を飲み、トイレにいって用を足してから「ざっくん一号(座具)」に坐り、のんびりとストレッチを行ってから坐禅をします。会社勤めのカルマが積もりに積もっているので、未だに結跏趺坐は組めません。

仕事で一日中早歩きをしていた所為で、下半身の筋肉が筋張って固くなり、骨格の可動域も狭くなっているので、半跏趺坐なのか何なのか良く分からない坐り方しか出来ません。また、腕が短いので「法界定印」を組むと辛いです。なので、代わりにヨーガの「チン・ムドラー」を組んでいます。

無料素材サイトの「Photo AC」で画像を漁っていたら、今の私の坐禅の姿に近い写真をダウンロード出来たので、お見せしたいと思います。画像との違いは、座蒲や座具に坐っている所と、腕をピンと伸ばして両膝を軽く押すようにしている所と、右足では無く左足を上にしている所くらいですかね。

 

 

まあ、坐禅というより、ヨーガですね(汗)坐禅会でこんな坐り方をしていたら、帰れと言われてしまいます。でも今現在は、こんな坐り方しか出来ないのですから、仕方がありません。とは言え、結跏趺坐が出来るようになるまで、坐禅をしない訳にもいきません。

しかし、この坐り方でも腹圧を抜かない「持続腹圧呼吸」をすれば、吸って吐く一呼吸で丹田がキマります。だから、こんなんでも一応は坐禅なんです。丹田がキマれば雑念が停止し、体の中心を「気の柱」が貫きます。その際、気の柱が体内の各チャクラを一直線上に貫くように姿勢を整えるのがコツです。

私の場合は、気の柱が頭頂のサハスラーラまでは届きません。蓋がされているというか、跳ね返されているというか、そんな感じがします。丹田力がもっと強くなれば頭頂をブチ抜けるのかも知れませんし、他に満たさなければならない条件があるのかも知れません。現状ではそこまで分かりません。

 

悟りの体験談でも書きましたが、転迷開悟した後に、睡眠中に鮮やかな紫色の気の塊が丹田に発生し、それがグイグイと体内の中心部(衝脈)を押し広げながら上昇し、頭頂に抜けるという神秘体験をしています。

まるで仙道で言う「急型の大周天」のような体験だったのですが、私の場合は既にこういう経験をしているからこそ、丹田に生じた気の塊が頭頂にまで届くのかも知れません。長年、気功をやっている人はともかく、坐禅を始めたばかりの人でもこのような体験をするのかは分かりません。

試しにやってみて、気の柱が頭頂まで届いたよとか、別のチャクラで止まっちゃったよという報告みたいなのをして頂けると、非常に助かります。管理人の自己紹介のページに「お問い合わせフォーム」という項目がありますので、よろしければそちらからご報告ください。

 

 

幽霊の 正体見たり 枯れ尾花

私は高藤仙道から精神世界に興味を持ち始めた人間なので、超能力やらオカルトやら神秘体験などの話も普通にします。禅の世界なら「魔境だ!」と一刀両断するような話でも一旦は真面目に検証する事にしていますし、その為に自分をモルモットにする事など日常茶飯事です。

正しい考え方かの判断はつきかねますが、個人的に禅の流儀の厳しさは、魔境や禅病などの諸問題を回避する為のものだと考えています。逆を言うと、禅病の治し方や、魔境の対処法は、禅の世界には無いかも知れないと言う事です。

実際、坐禅や瞑想の最中に泣きっぱなし、笑いっぱなしになったという話がありますし、白隠禅師のように酷い「のぼせ」に苦しんだという話もあります。私にしても、暗い部屋で目を瞑って坐禅をすると変な映像が見えたり、予知能力もどきが発揮されたり、360度の視界が開けるなどの体験をする事もあります。

 

丹田呼吸をすると気の塊が発生するのは人体のメカニズムですし、深層意識に眠る心の闇を放置すれば、何らかの形で身心に異常が出るのが普通です。また、人体には使い道の無い潜在能力が結構あるのですけど、それが開花した所で偉くも凄くもありません。例えるなら、耳をピクピク動かす事が出来た所で、それが何だというような話です。

「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」などと言うように、正体が分からないから恐かったり、正体が分かればなんちゃないという事もあるものです。しかし、恐怖や不安といった強い感情は、時に判断を誤らせて、人をとんでもない所に連れて行ってしまいます。

ですから、指導者の一番の仕事は、弟子や生徒がおかしな方向に行かないように気を遣う事と、道を間違ったら直ちに連れ戻す事になります。それが出来ないなら、指導者を名乗る事は許されません。人を導くという事は、ただ単に正しい事や正しい方法を教えていれば良いと言うような、単純な話ではないのです。

 

 

臆するべからず

逆を言うと、常におかしな方向に行く可能性がある事を知り、それなりに対処する方法を持っているなら、坐禅瞑想を独学・独習する事も可能になると言う事です。もちろん多種多様な困難が待ち受けていますし、トライアンドエラーと自力解決が基本になりますけどね。

とは言え、正師と出会うまでは自力で進むしかないですし、それなりに力が無ければ邪師を正師と勘違いする事もあります。実際、正師は数が少なく宣伝もしないから出会い難いですし、邪師は都合の良い事を言い垂れて派手に宣伝するものです。だから騙される人が後を絶たないんですよ。

どの分野であれ、手探りで進むのは恐い事です。でも、それを必要以上に恐れると、邪師や悪党に付け込まれます。それはマトモな親が笑顔で居場所を用意して待っているのに対して、毒親が「あれをしろ、これはするな」と親切ぶって命令するようなものです。

 

正師に出会うまでは、下手に恐れず、真贋正否を決めつけたりせず、視野を広く持って、裏も表も意欲的に学ぶ事を心掛けてください。そういうやり方でも大切な事や必要な事は自分の中に残りますし、不要な事はアッサリと忘れるものです。割と上手く出来てるんですよ、そういう所は。

そして、悟りの道を歩むのに、間違いや失敗はつきものだと理解してください。失敗したくないという気持ちは分かるのですが、邪師はそこに付け込んで来ます。禅病こわい、魔境こわい、騙されるのこわいと恐れてばかりいると、逆に詐欺師などの悪党を引き寄せる事になります。

人生何があるのか、いつ死ぬかも分からないものですし、何であれリスクの無い道なんかありません。必要なのは、学ぶ意思と、つま先立ちの慎重さです。リスクを自力で乗り越えたという経験は、自信に変わります。自信を獲得しなければ、いつまで経っても不安や恐怖に打ち勝てません。

 

 

禅定と智慧

例えるなら、人生はヤジロベエみたいなもので、グラグラと左右に傾く事は誰にでもあります。でも、ドッシリと構えてバランスをとれば落ちる事は無く、次第に振り幅が小さくなっていきます。そして、バランス感覚を養うには、経験から学ぶしかありません。

ただ人生経験を積むだけでは、重みが増えて疲弊します。経験を整理し、本質的要素を抽出して、余計な部分は捨てていかなければなりません。この抽出作業を積み重ねていく事で「智慧」が生じます。言うならば、智慧とはエッセンシャルオイル(精油)みたいなものですね。

この精油が十分に無いと、神秘の扉は開きません。先人は扉の開き方ならいくらでも教えてくれますが、精油を分けてはくれません。こればかりは、いくら分けてあげたいと思っても出来ないのです。

 

神秘の扉は、精油さえあれば開きます。開いた扉をくぐったら、後はその先に坐して留まるのみです。何故なら、その扉はタコツボのようなエゴからの出口だからです。

エゴから一歩踏み出した世界は、ただ在るがままに在るだけのダイナミックな世界です。しかし、世界は誰かの為に存在している訳ではないので、決して都合良くは出来ていません。だからエゴは、真理の厳光に曝け出された世界を嫌って、再びタコツボ自身の中に逃げ込もうとします。

「禅定」とは、在るがままの真理の世界に留まって、そこから逃げず、目を逸らさない事です。仏教では、智慧と禅定を極めると、真の悟りが起きると説きます。そして真の悟りとは、言わばタコツボの消滅であり、それはタコツボに執着している内は決して起きません。

 

タコツボへの執着心を無くすには、タコツボとは何かと観察して、そのダメさ加減を思い知る事です。どう上手く使ってもタコツボは人を幸せになどしないと理解した時、タコツボは風船のように破裂するか、音も無くスルリと脱落します。どちらのパターンになるかは、人によります。

タコツボは崩壊・脱落する前に、酷い苦しみを生じさせます。しかしそれはエゴの断末魔であって、禅病や魔境ではありません。一概には言えませんが、禅病や魔境はバランスの悪さ(極端さ)や未整理の人生経験が原因となる事が多いようです。

結跏趺坐を組む事だけが、坐禅修行ではありません。理を弁えて工夫をすれば、仕事を含む日常の何もかもが修行になります。正しい事も、間違いも含めて修行です。これが行住坐臥、坐禅という事なのだと思います。坐禅の組み方については、別記事がありますので、そちらを御覧になってください。

 

 

坐禅の組み方

坐禅の組み方

 

2020年6月22日2019年

Posted by 清濁 思龍