動物としての人間

2020年6月24日積極的隠遁

引きこもりは敗北ではない

様々なケースがあるので一概には言えませんが、人が引きこもるのは「上手く社会に適応出来ない」と思ってしまった時ではないでしょうか。適応出来る、生きていけるという自信が無いからこそ、学校や社会に恐怖を感じて足がすくみ、引きこもるしかなくなるのではないでしょうか。

基本的に、世の中はエゴとエゴのぶつかり合いであり、マウントの取り合いです。所詮、人間社会は弱肉強食の猿山ですから、コミュニケーション能力に問題が無く、強者に媚びて弱者から奪う事を躊躇しないのであれば、余程の事が無い限り生きていけます。

逆を言うと、引きこもる人の心には、割と繊細な部分があると思うんですよ。家庭内における過度の甘やかしにより、社会に適応出来ずに引きこもる人も居ますが、その手の人物にも心の痛みを感じるだけの最低限の繊細さはあると思っています。何せ人として終わってる奴は、自分が嫌われている事にすら気付かず仲間を作ろうとしますからね。

 

終わってる奴は、終わってる奴同士で群れを作り、数の暴力によるゴリ押しで生きていこうとします。そんな連中でも、共通の敵が居たり、快楽や利益を共有するような何かがあれば、仲間意識が芽生える事もあるようです。

仮に仲間が居なくても、暴力によって自分を頂点とした小さな群れを作り、弱者から奪えば生きていけます。もちろん最低な生き方ですが、そこは気にしたら負けです。例え、下手を打って犯罪者に成り下がったとしても、国家が更生の後押しをしてくれるから大丈夫。

完全に開き直ってしまえば、反省なんかする必要はありません。やったもの勝ちの世の中なら、好き放題にやれる人でなしの方が有利です。本格的に負けが込んでヤバくなってきたら、反省したフリをすれば優しい誰かが助けてくれます。

こんな生き方はおかしいとか、何処か間違っているなどと考えさえしなければ、良い事しかありません。

 

 

奪う側の心理

猿山の中で弱者と見做され、利益を奪われたり、負担を押しつけられたりすれば、誰だって悔しいと思います。そうなれば、強くなりたい、奪う側に回りたいと考えるようになり、優しさという弱味を欠片も持たないワルに憧れるようになっていきます。

しかし、中途半端なワルほどカッコ悪いものはありません。平然と酷い事をやれる本物のワルには頭が上がらず、真面目に生きている人からは軽蔑されます。時には弱者だと見下していた真面目な人に反発されて、痛い目に遭う事さえある訳です。

ひとたびワルに成り下がれば、後は強がり続けるしかありません。猿山の中には、手段を選ばずワガママを押し通したり、他人から奪う事しか考えない奴しか居ないのですから、絶対に弱音なんか吐けません。もちろんストレスは感じるでしょうけど、それは自分より弱い者を虐げる事で発散すれば良い話です。

 

自分の強さを実感したいとか、自分よりも下が欲しいといった自己中心的な欲望が、イジメや差別の根本要因です。自分が優越感や安心感を得る為に、常に弱者を虐げる必要があると言うのが、奪う側の論理です。捕食される側に回りたくないから、捕食する側に回るというだけの話なのです。

そういった割と切実な理由がある以上、いくら「イジメ、カッコ悪い」的なスローガンを掲げようが、法令等で束縛しようが、捕食という行為を根絶やしにする事は出来ません。イジメを止めろと訴えるのは、捕食者の立場と利益を捨てろと言っているのと同じです。

弱肉強食の世の中で、捕食者としての力と立場を捨てようものなら、自分が捕食される事になります。それは捕食者としてワガママ放題やってきた者にとって相当な恐怖であるようで、追い落とされそうになった時に見せる狂乱ぶりは、その醜態を見ている側が圧倒されてしまうほどです。

 

「奪われたら奪い返すか、より弱い者から奪えば良い。奪われるのは弱くてマヌケだからだ。奪われるのが嫌なら、奪う側になれば良い。悔しかったら俺様から奪ってみろ。ただし、俺様は強いし、仲間やセンパイも黙ってないけどな。」

この世紀末の悪役じみたセリフが捕食者の論理であり、猿山の根底にある価値観です。強ければルールやマナーなんか守る必要はないし、いくら悪事を働いても罰する事は出来ない。実際、人間性だけでは腹が膨れないし、奪われずに済む訳でもない。つまり、こんな腐った論理にも、一分の理くらいはある訳です。

この考え方からしてみれば、悪党が悪党としての力をつける前に、権力でも何でも使って本気で打っ締(ぶっち)めてしまえば良いと言う論理も成り立つ筈なのですが、それは社会のルールで「やってはいけない事」になっています。

 

 

出て行く勇気を持つ

この首を傾げたくなるような社会のルールにしても、加害者の人権だとか、逆ギレして暴れられると被害が拡大するとか、更生の可能性などと言った、一分の理があります。個人的には、その場その時で多少の被害は出るにしても、キチンと処理した方が救われる人は多くなると思うのですが・・・まあ、そういう考え方が受け入れられる事は無いでしょう。

余程の大鉈が振るわれない限り、人間社会は蠱毒のままです。政治に期待するにしても、民主主義は多数決ですから、人気商売以上のものにはなり得ません。ですから、結局は自分なりに生き抜く術を身につけるしか無いのです。

で、その生き抜く術とは何なのかという話ですが、これは悪党を締める方向では無く、極力関わらずに済む方向で考えた方が良いと思います。要は、政治や社会に任せきりにするのではなく、自分の居場所は自分で作るという方向で考える必要があるという事です。

 

これらの事は、本来なら小学校低学年あたりから対策していかなければならない事だと思うのですが、今更焦った所でどうにもなりません。家庭を持ち、小さなお子様が居るのなら、いつでもイジメの被害に遭う可能性はあると考えて、我が子を守り抜く覚悟を決めるしか無いです。

そして、子供には公務員や大企業などの安定した職場に就く事を求めたりせず、将来的に起業する事を視野に入れて教育するしかないと思います。尤も、これは親自身が社畜だと、実践不可能な方針ですけどね。いずれにせよ大きなお世話ですから、教育についての話はここまでにしておきます。

今現在、成人して会社勤めの身だけれど、色々あってもう嫌だという人は、退職しても生きていける方法を学びましょう。もちろん、いきなり起業なんか出来ませんから、まずは成功した起業家に学ぶべきです。少数ながらも、新しい試みに挑戦している人は確かに存在します。


 

 

弱肉強食が基本の猿山に居る限り、マウントの取り合いからは絶対に逃れられません。マウントの取り合いや、ボス猿への成り上がりを心から楽しむ事が出来ないなら、猿山から出るしかありません。マウントの取り合いを嫌いながら猿山に留まる事を選ぶのは、非常にバカげた選択です。

私に言わせると、引きこもりとは「猿山から出るに出られず、八方塞がりに陥っている人」なんですよ。だから猿山に適応しろとか、マウントを取れるようになれとは言いません。そうではなくて、人間らしく生きたいのであれば、猿山から出ていく逞しさを身につけるべきだと思うのです。

猿山は学校や会社組織だけとは限りません。実の親が自分の家庭を猿山にしてしまう事もあります。親子共に猿同士なら、お互いにマウントの取り合いを楽しめるかも知れませんが、一生懸命に踏ん張って「人であろう」としている者に「猿になれ」とは言えません。

 

猿山に居心地の悪さを感じるのは、人として当然です。人は猿山では暮らせないのですから、人里を求めて旅に出なければいけません。旅に出るのが遅れれば、それだけ被害は大きくなり、猿山から出て行く力も失われてしまう事でしょう。その末にあるのが引きこもりだとしたら、あまりにも救いが無いですよ。

絶対に居着いてはならない悪い場所というのもありますが、それも人によって変わります。猿にとっての猿山のように、その人には相応しい場所というのもある訳です。大切なのは、その見極めです。大人なら自分で見極めなければいけないし、子供なら保護者が責任をもって見極めてあげなければいけません。

ブラック企業が蔓延る原因の一つに、どれだけこき使っても社員が辞めずに我慢するというのもあると思います。出るべき時に出ていかなければ、力尽きるのは当然です。そうなる前に「自分の意思で」出て行かなければならないし、出て行く為に必要な事を学ばなければいけません。

 

 

栄えある遁世者への道

「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」 時々は買い物などで外出することもあるという場合も「ひきこもり」に含める。

これが厚生労働省が定めた「引きこもりの定義」だそうです。国としては、社会的な活動に参加しているか否かという所で、線引きをしたようですね。ですから、在宅の仕事がメインの人や、起業した1人社長の場合は、引きこもりとは言いません。

ただ、この定義だと、一生を支えるに足る財産を持つセレブニートや、坐禅修行や芸術などの趣味などに打ち込んでいる遁世者まで引きこもりに分類されてしまいます。

早期リタイアや隠遁生活は実に楽しいものですが、引きこもっている人達は、生きている意味が無いとか、死にたいけど死ねないと言った悩みや苦しみを抱えているそうです。この差は、生き甲斐や自信を持っているか否かにあると思います。

 

少々乱暴な言い方をすると、在宅で稼げる手段が増えれば、引きこもりという問題は、それなりに解決すると思うんですよ。稼いで税金を納めれば社会的な活動に参加する事になりますし、経済的に自立すれば、人としての自尊心も回復する筈です。要は、本人が自分の生き方を肯定出来るようになれば良いのですから。

辛い過去の所為で、人間関係が苦手になるのは仕方がありません。それもまた人の心の仕組みです。心理学者や精神科医は、人の役に立つ事が自己肯定に繋がるので、家事手伝いや、ボランティアなどに積極的に参加して、徐々に社会復帰すれば良いと主張しています。実際、そういう臨床例があったのでしょうね。

ただ、中には「人の役に立つのは当たり前、自分の足で立てない内は、自信なんか持つ資格が無い」との厳しい考え方をする人も居る筈です。そしてそういう考え方をする人は、無理に社会に押し込めない方が、面白い成長の仕方をすると思います。

 

 

世は 定めなきこそ いみじけれ

諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。この仏教の三宝印(さんぼういん)という教えの意味する所は、本当は何も無いという事です。何も無いという事は、何でもありだし、万事オーライという事でもあります。

自分には価値が無いとか、生きている意味が無いと思うのは辛い事です。しかし、価値とは誰かが勝手に決めているものに過ぎず、意味が無いなら誰かが勝手に付け加えても良いという事でもあります。価値だの意味だのは、所詮その程度のものなのです。

「無い=自由」であり「有る=不自由」です。だから「無いものは無い」とか「無縄自縛」と説く仏教は、人を救えるのです。そうと分かれば、必要なのは「我、斯くあるべし」とするパワーだけです。

 

その視点からすれば、猿も、猿山も、マウンティングも、本質的にはオーライです。しかし、それは最悪の結果しか生まないと判断するのも、またオーライです。所詮、世の中はエゴとエゴのぶつかり合いであり、それ以上の意味を持ちません。だから「ダメだこりゃ」と思って隠遁するのもオーライなのです。

 

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2020年6月24日積極的隠遁

Posted by 清濁 思龍