汝、積極的に隠遁せよ!

2020年5月10日積極的隠遁

ダメな奴ほど出世する

日本国は経済的な成長期を終えて久しいですし、超高齢化社会にもなっている為、我々の生活は厳しくなる一方です。かつて管理人が勤めていた会社も、身心を壊す人が続出し、時には自殺者さえ出すようなブラック企業でした。でも、そのブラックさは大勢の従業員を養う為に必要なものだという事も、一応は理解しておりました。

悪名高き労働者派遣法の改正にしても、会社が倒産して失業者が続出するよりはマシだというタテマエがありました。外国人労働者の受け入れにしても、有能な人材の確保というタテマエがある訳です。人が嘘を吐いてまで悪い事をするのは、都合の悪い真実がある時だけです。正論が強い事は誰だって分かっています。

早い話、タテマエ塗れの日本的経営は、グローバリズムという名の焼き畑農業に負けたという事です。全人類が豊かになれる夢みたいな経済戦略なんかありません。悪い事を平気でやる嘘吐きが勝つのは世の常ですし、悪い奴が悪い事をやれるのは、それを見て見ぬ振りをする偽善者が居るからです。

 

都合の悪い事を直視するのは、非常に勇気が要る事です。心が傷つき、痛い思いをする事を受け入れる勇気が無いと、人は堕落し、嘘を吐く愚か者に成り下がります。で、その嘘に気づきもしない人や、見て見ぬ振りをする偽善者のおかげで窮地を乗り切ると、愚かな人は「ああ、これでいいんじゃん。自分が損をしないで済むなら、後はどうでもいいや」と考えるようになってしまいます。

手を下さない、何もしないという事は、非常に楽な事です。そしてその楽さに慣れてしまったり、何もしないことを正当化し始めると、口先ばかりで何も出来ないオトナが出来上がります。そして今の日本社会は、そういう「問題を起こさない人」の方が出世するようになっています。

経済が上向きで、景気が良い頃はそれでも良かった。上司が無能でどうしようもない奴でも、イザとなれば人の頬を札束でビビビンと叩けば、大抵の事は何とかなった。でも、今はもう札束自体が何処にも無いので、人の頬を叩けなくなってしまった。だからあちこちでトラブルが起きるようになってしまったと言うのが、管理人の社会に対する見解です。

 

 

心の純化

社会に偽善が蔓延ると、野性の掟が支配する猿山と化します。では偽善の正体とは何かと言うと、それは形骸化した善であり、ある種の信仰やイデオロギーであり、マインドコントロールである訳です。

本来、善とは測りがたいものであり、状況次第で悪に変化する事さえある不安定なものです。しかし、人の認識は「絶対善」が存在すると思い込むように出来ていますし、不確かなものに不安を感じるようにも出来ています。故に「絶対善」が存在するという思い込みを肯定し、不安を払拭するようなロジックが持て囃される傾向があります。

真実を見据えて正しく生きようとしたり、悟りなるものを経験したいのであれば、まずこのマインドコントロールを全面的に解除しないといけません。要は一旦、頭を白紙に戻すという事なのですが、それは身につけてきた一般常識や文化まで白紙に戻す事にもなるので、精神的には無防備で不安定な状態になります。また、マインドコントロールは他者に解いてもらっても逆洗脳にしかなりません。

 

マインドコントロールの影響下にある人は思考に強いバイアス(偏り)がかかるので、何をどう勉強をしてもトチ狂った結論しか出せません。カルト宗教の信者とほぼ同じ精神状態にある人に「自分の頭で考えろ」と言ってみた所で、全くの無意味です。率直に言って、そんな人は相手にする価値がありません。

しかし、マインドコントロールをマインドコントロールだと認識する事が出来れば、活路は開かれます。後は手探りで確かめながら、一歩一歩、慎重に進んでゆくだけです。一寸先は闇であるという現実は、受け入れるしかないものです。偽りの灯明に頼り縋れば一応の安心は得られますが、結局は一歩も進めず何も解決しないまま一生が終わります。

無駄に一生が終わるだけならまだマシで、中には知らず知らずの内に悪党に利用されて罪を背負う人も居ます。だからと言って何も信じなかったり、全てを疑ってかかっても、疑心暗鬼に陥るだけです。マインドコントロールを解く方法はただひとつ、自分で自分を論破する事のみです。

 

この自己論破の末にマインドコントロールが解除される事を、当サイトでは「心の純化」と呼びます。心が純化された人は、認知バイアスが殆どかからなくなるので、物事を正しく認識したり、比較的歪みの少ない思考をする事が出来るようになります。

要するに、心が純化されると賢くなるという事なのですが、ただ純化されただけでは幼い子供とそう変わりません。純化された無垢な心は、飽くまでも物事を正しく学ぶ際に必要なのであって、ここから様々な学びを積み重ねていかなければならないのです。

心の純化は当サイトの思想の柱のひとつであり、悟りの道を求める人にとっては最優先の事柄になります。その方法については別の記事で詳しくお話するとして、とりあえずは社会人として働きながら心の純化を行う為の方法について説明していきます。

 

 

敢えて「仮面」を身につける

もしマインドコントロールされた人間の群れの中に、心が純化された人が入り込んだらどうなるのかと言いますと、そのままでは異質な存在として排除される可能性が高いです。日本の社会に属し、社会の一員として働くなら、日本社会特有のマインドコントロールにかかっていた方が得ですし、有利なのです。

隠遁するにしても、社会人として生きて行くにしても、マインドコントロールの実態を学ぶ必要はありますし、同調しているフリをしつつそれを解除していくという器用な真似もしなければなりません。人間社会に適応するには、本当は無意味と知りつつも、まるで大切なものであるかのように振る舞う「仮面」を身につけなければならないのです。

気づきの度合いが深まれば深まるほど精神的には孤独になりますし、裏表のある二重生活を送る事にもなります。そんな生活を自ら望む者など居はしませんが、ひとたび自らの愚かさと罪深さに気付いてしまえば、もう後戻りなど出来ません。

 

元より人の一生は不安定なものですし、求道とは否応なしにせざるを得なくなるものです。偽りの安心に縋り付こうとすればエゴ地獄でのたうち回る羽目になります。エゴ地獄たる人間社会にも楽しみや慰めくらいはありますが、真の答えや救いはありません。

振り返りたいと思う気持ちがある内は、求道に踏み込むのは時期尚早です。楽しみや慰めが欲しいなら、思う存分それを求めるべきです。精一杯努力し、汗を流し、息を切らして、つかみ取ろうとするべきです。そして欲しいものを得たという満足感は、人を次の課題に挑ませてくれるでしょう。

次から次に表れる課題をこなしつつ、裏表のある二重生活を送っていれば、いずれ「ダメだこりゃ、もう無理だ」と思う時が来ます。何せ、欲望にはキリが無いですし、こなすべき課題も難しくなる一方ですから。でも、恐れる必要はありません。何故なら、その限界はエゴ地獄に居られる限界に過ぎませんし、もうこれ以上は愚かなままでは居られないという意味の限界でしかないからです。

 

本当に愚かな人は、社会人としての仮面を自分の本当の顔だと錯覚します。こうなると自己の本心に立ち返る事が出来なくなるので、本当の意味での幸福や満足を味わう事も出来なくなり、後は欲と力に狂うしかなくなります。

完全に狂ってしまえば、少なくとも人間社会や仲間内では迷い無く生きられるようになりますし、エゲツない真似を平気でやれるなら勝利の優越感を味わう機会も増えるでしょう。でも、それだけです。本当にそれだけで、他に何もありません。

無垢な心を取り戻そうとせず、純化のチャンスを掴もうとしないのは、人としての高度な感情や、生きる喜びを捨てるのと同じです。管理人としては、読者の皆様には目先の損得にとらわれず、大局を見据えて生きる事を望みます。

 

 

価値観の相対化

マインドコントロールを解く方法は自己論破のみであり、その為にはマインドコントロールがマインドコントロールである事を見極めなければなりません。そしてその有効な補助訓練として「価値観の相対化」というものがあります。具体的なやり方は、全てにおいて真逆の見方もするというだけなのですが、これが意外と効くんですよ。

全ての物事には表裏があり、そのどちらかが真実という訳ではありません。もっと言うと、全ての見解は「そう見做す事も出来る」というだけのものに過ぎず、真実など初めから存在しないのです。これを仏教では「空性(くうしょう)」と呼びます。しかし、人の心はその真理を認めようとはせず、安定や安心を求めて「自分は正しい事や真実を知っている」と思いたがるように出来ています。

その所為で、我の強い人は物事の一面だけを強調して「自分の意見は筋が通っている」と主張してきますし、時には「力」でゴリ押しして来る事もあります。ですが、いくらそんな真似をした所で、諸法空性という真理は変わりません。

 

ただし、価値観の相対化には、どちらが正しいのかが分からなくなって、自己主張が弱くなると言う副作用もあるので注意してください。この副作用は、俯瞰的な立場で両サイドからマウントを取る事で、自己の精神安定を図ろうとする最低な人を生み出す事もあります。これは評論家やご意見番の職業病みたいなものです。

相対化という手法は、嘘吐きに対してはそれなりに効果を発揮するものの、双方の言い分に理がある時は殆ど役に立ちません。精々、折衷案を出したり、玉虫色の決着でお茶を濁す事しか出来ないので、問題の解決法としては中途半端です。

それよりはトラブル覚悟で真っ正面から主張をぶつけ合って、ダメなものはダメと白黒ハッキリつける方がまだマシと言えます。しかし、これも自己満足の為に行われる事が非常に多く、建設的な議論になる事はまず無いと思った方が良いでしょう。

 

我の強い人は、自分の主張を一方的にゴリ押しする事しか考えられず、ちょっと気に入らない事があったり、自分の意見が否定されそうになっただけでブチ切れるので、建設的な話し合いが出来ません。また、我の強い人物は、自分よりも我が強い者になびく傾向があるので、基本的に信用出来ません。

我の強い人ほど、清濁併呑の器量を身につける努力をしなければならないのですが、実際にこれを成し遂げられる人物は殆ど居ません。また、我が強いのにチャレンジをせず、勝てるケンカしかしない人は、自己評価と気位ばかりが高くなります。仮に打ちのめされて身の程を思い知るような事が起きても、視野が狭いと学べる事にも偏りが出ます。

心の正しさや、真実を求める傾向がある人は、我の強い人とは極力関わらないようにしてください。価値観の相対化をしていると、どうしても心に迷いが出るので、そこを我の強い人に付け込まれたり、押し切られてしまう事があります。そうなると大変危険ですので、自分の中で相対化スイッチのON/OFFが出来るようになっておきましょう。

 

 

汝、積極的に社畜せよ

「価値観の相対化」には強い副作用があるものの、自己の視野を広げようと思えば避けて通れない事でもあります。視野が広くなると、良い事も悪い事も視界に入るようになるので、多様な価値観を持つに至り、それぞれ異なる立場の人の気持ちも分かるようになります。

しかし、それは迷いや苦悩が深くなると言う事でもあるので、視野が広くなればなるほど、生きるのはしんどくなります。その苦しみを乗り越えて多様な価値観を持つに至った人は、空性という真理に目覚める可能性が出て来ます。この記事では詳しく説明しませんが、価値観の相対化を推し進めると、仏教の「空観(くうがん)」という冥想法になるのです。

空観はとりあえず置いておくとして、この国で生きるなら、まず日本人としての基本的な価値観、即ち「一般常識」を身につけなければなりません。その一般常識を身につける最も手っ取り早い方法は、何と、自ら望んで社畜に成り下がる事だったりするのです。

 

会社のお偉いさんは、優秀な社畜ばかりです。中にはゲロっ気もよおすゴミ人間も居ますが、それでも社畜同士の闘争に勝ち抜いて、自らの地位を守り続けるだけの強みを持っている訳です。

まあ、その強みも「事勿れ(ことなかれ)主義」や「責任転嫁」などのロクでもないものばかりなのですが、その手口を知っておいて損はありません。手口を知っていれば、裏をかく事も出来ますからね。お偉いさんが何を言おうが「所詮は社畜」と認識していれば、騙されたり呑まれてしまう事も無いでしょう。

独立起業をして成功した人も、雇われている時は殆どが社畜の身分に甘んじていたと聞きます。下記リンク先の著書は、正しい社畜の在り方と、知っておかなければならない事について書かれた名著です。是非ともご一読を。

 

 

悪しき「事勿れ(ことなかれ)主義」にしても、そもそもは「社員や部下の成長を見守る」という寛大な視点から始まって、広く受け入れられるようになった価値観であるように思います。しかし、それによって情緒的に未熟な人物の主張ばかりが通るようになった現状は、どう考えてもおかしいと言わざるを得ません。

社畜にしても、その始まりは愛社精神であるように思います。自己が属し、お世話になっている組織に感謝の気持ちや忠誠心を持つのは当然ですし、むしろそういった気持ちを持たない人間を増やすメリットが何処にあるのかが分かりません。

日本の社会は、契約の社会ではなく、情と信頼で繋がる社会です。しかし、その情と信頼の部分に付け込まれると、あっけなく崩壊する社会でもあります。実際にもうかなりの所まで壊れていて、もはや決して元には戻らない所まで来ているので、今後は情など通じない契約の社会にシフトしていく事でしょう。

 

しかし、まだ情と信頼の残滓はありますから、社会に出てしばらくは、自ら進んで社畜に成り下がる方が得るものは多い筈です。有能な社畜は「上」とのパイプを作れます。頑張れる内に可能な限り「縦の繋がり」を作り、出世した上司や先輩達から知識や経験を吸収すれば、悪党共の「横の繋がり」にも対抗出来るようになります。

義務を果たさず権利ばかり主張する厄介者や、自分の事しか考えないエゴイストは、いつか必ずボロを出します。中には転落を経験しないまま定年退職を迎える人も居ますが、その対価としてとっくの昔に「人としての心」を差し出しているものです。

会社組織で働く事は、自らが独立起業を果たすまでの学びであると考えましょう。お金を貰って勉強をさせて頂いていると考えれば、自然と感謝の気持ちも湧いて来ます。力を付ける為に敢えて優秀な社畜となり、必要な学びを終えたら感謝の気持ちで去って行く。その先の運命は、自分の力で切り拓いていくのです。

 

 

全ては自由を得る為に

引きこもりや自殺は、人が「進退窮まった」と感じた時に行う自己救済の手段です。何らかの希望がある内は誰もそんな真似はしませんし、他に稼ぐ手段があって会社を辞めても生きていけるとなれば、過労死するまで働く事も無いでしょう。

会社組織の中で生き残ろうとすれば我の張り合いになりますし、我の張り合いは手段を選ばない悪党の方が有利です。しかし、それは不毛な戦いであり、無益な戦いです。周囲を巻き込む戦いを繰り広げてまで、人間社会に適応する事が正しいとは思えません。

社会不適応という言葉には、劣等、欠陥、弱さ等を連想させる嫌な響きがあります。でも、適応すべき社会が病んでいたなら、そこに適応出来ないのは、むしろ当然のような気がします。

 

かつて私が若い頃、自力でマインドコントロールを解いていた頃は「こんな事、知らなきゃ良かった」と思ったものです。自分や他人のエゴの醜さに絶望し、人類なんか滅んでしまえと呪った事もありました。

しかし、それさえも認知バイアスであると気づき、自身の内に在る「神性」としか言いようの無い無垢な心に触れた時、これまでの全てが報われたと思いました。その時、私は確かに「自分の心が生み出した、自分の世界」を救った(壊した)のです。

だからと言って、地球そのものや、日本という国や、我々が住んでいる地域や、勤めている会社や、通っている学校まで救えるとは限りません。その場を支配している悪党が強ければ自浄作用は働きませんし、そうなれば物言わぬ真面目な人が犠牲になります。

 

責任感から、つい厄介事を背負ってしまいがちな人達に、私は「逃げてもいいよ」と言ってあげたいのです。そんな所で頑張らなくてもいいよとか、他にもやりようはあるんだよとか、いっそ隠遁しちゃいなよと言ってあげたいのです。

人間社会は、悪党や、偽善者や、社畜が回せばそれでいいと思います。連中同士でいがみ合い、噛みつき合おうが、好きでやってんだから知った事ではありません。飽きるまで勝手にやっていればいいのです。潰し合い、殺し合えば良いのです。欲に塗れ、金に塗れ、暴力に塗れ、せいぜい猿山のボスを目指せば良いのです。

自分自身で、そういう荒んだ生き方を選び取るのは構いません。でも、そこに真面目な人や、繊細な心を持つ人まで混ぜようとするから、世の中がおかしくなっていくのです。

 

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2020年5月10日積極的隠遁

Posted by 清濁 思龍