精神的な高みを目指して

2020年5月10日心の純化と自己実現

自己と向き合う

心の純化を行うには、絶え間ない他者からの干渉や、外界のノイズによる刺激を遮断する事によって、心の本来の在り方である「明鏡止水の心境」を垣間見る必要があります。そしてそれは、本当の意味での「休息」でもあります。例えるなら、干渉およびノイズによって汚泥が掻き立てられ、水底が見えなくなるほど悪化した水質を回復させるようなものです。

心の水底を見通せない状態が続くと、人としての無垢な本性や、存在の基本や土台の部分を忘れてしまいます。これは非常に良くない事なのですが、現代人はほぼ例外なく、誰もがこの精神状態に「させられて」います。むしろ、その状態こそが正しいと「思い込まされている」と言って良いほどなのですが、現代人の誰もが同じ精神状態に所為で、そのおかしさに気づけなくなっている訳です。

この集団的病理から回復するには、どうしても人間社会から一定の距離を取る必要があります。最低でも精神的な距離を取り、出来るなら物理的にも距離を取り、他者からの干渉や外界のノイズを遮断する時間を持たなければなりません。静かな環境で、1人、自己の心と向き合う時間を持つ事は、食事や睡眠と同じくらい大切なのです。

 

しかし、人間社会は常に誰かと共に在る事を強制してきます。自分の家族ならまだ話は分かりますが、学校や会社に居る、大して気の合わない連中とまで「仲良くしろ」とうるさく言ってくるのが困りものです。

要するに「平和は対話によって生まれるのだから、誰とでもキチンと話し合って、お互いに理解し合い、協力し合え。それが人としての賢い在り方であり、進歩的な価値観だ」と言う話なのですが、これは正しいようで正しくない単なる理想の押しつけに過ぎません。何故なら、世の中には対話が成立しない相手も居るからです。

確かに相互理解それ自体は素晴らしい事なのですが、残念ながら全ての問題を「話し合い」で解決する事は出来ません。この無茶な理想の押しつけと、日本社会の宿痾である「事なかれ主義」が結びつき、結果的に被害者よりも加害者を厚遇する社会となり「悪が笑う世の中」になっている訳です。

 

悪が笑う世の中は、善人にとって極めて不愉快なので、その心は常に掻き乱される事になります。それは人としての成長に必要な事ではなく、余計な負担でしかありません。しかし、今更「進歩的な価値観」を覆すのは無理なので、当サイトとしては「汝、積極的に隠遁せよ!」と主張せざるを得ないという結論に達しています。

ただ、隠遁するには資金と準備が必要なので、いきなりは出来ません。また隠遁の準備の中には精神・経済的な自立と、その土台となる自我の確立も含まれています。これらの準備を終えない内に隠遁しても、まず上手く行きません。不愉快極まりない「悪が笑う世の中」を捨てるには、己を見失わないよう常に「心の水底」を見つめつつ、為すべきを成さねばなりません。

それは本当に大変な事であり、まさに苦行でありますが、進歩的な価値観を実現するよりは遙かに現実的であり、意味や価値もある生き方です。他人や世の中を変えようとしても上手くは行きませんが、自分の生き方を変える事なら出来ます。社会の歪みにより、たかが「自分を取り戻す」事が途轍もない苦行に成り果てていますが、それは唯一、やる価値のある事です。

 

 

文化の継承

人としての土台は、自分の力だけでは作れません。現代は個性の時代などと言われていますが、個性は最初から生まれ持っているものでは無いですし、完全自力で生み出せるようなものでもありません。

人間はほぼ白紙の状態で生まれてきますが、それは本能に従って生きる動物以下の存在状態でもあります。人を人たらしめるのは、先人達の経験の積み重ねである「文化」であり、継承した文化の影響を受ける事によって個性が形成され、社会性を身につけていきます。このプロセスを「社会化」や「教育」と言います。

我々が最初に触れる文化は、親が継承した文化です。これは「教育」によって否応なしに引き継がされる文化であり、こちらの意図とは関係なく、問答無用で白紙の上にブチ撒けられたインクみたいなものです。良くも悪くも、これが個性のベースとなって、その人の一生を左右する訳です。

 

親から継承した文化は、他の文化を学んで相殺する事は出来ても、無かった事には出来ません。また、親の中には、そのまた親に、ロクでも無い文化を継承させられていて、それを我が子に強引に引き継がせようとする事があります。これがいわゆる「毒親」と呼ばれている存在です。

毒親の教育は、愛ではなく呪いです。「自分は幼い頃にこんな目に遭った、だからオマエも同じ目に遭わせてやる」と言わんばかりの、歪んだ形の復讐です。毒親の根底にあるのは怯えであり、それを払拭したいが為に、我が子を犠牲にする訳です。その呪詛は下地となって残り続けて、他の文化や価値観を歪めて受け取らせるようになります。

毒親になるタイプの人間は、出会う者全てを呪います。他者を認める事など無く、自分より下と思えば手段を選ばず不幸を与え、自分より上と思えば尻尾を振りつつ下克上を狙います。その一生は怪物と呼ぶに相応しいものですが、意外とこのタイプの人間は社会で成功します。

 

何故なら、会社組織に属する場合は権力者に逆らわない「軽い神輿」になりますし、起業する場合は競合者を手段を選ばず潰したり、下に就く者を容赦なくこき使って成り上がろうとするからです。本来なら、この手の「獣」を野放しにしてはいけないのですが、あまりにも数が多過ぎる為に手の出しようが無いのです。

獣には獣の流儀や文化がありますが、それは学ぶだけの価値が無い、くだらないものに過ぎません。獣の世界に憧れたり、猿山で成り上がる事を夢見る人も居ますけど、それは人生の先にあるものを知ろうともしない、くだらない人達です。

人生の先にあるものを指し示すのは、哲学や宗教の役割です。しかし、哲学は真理に到達していないし、宗教は権力と結びついて腐敗します。最近は人道主義という思想がそれらに取って代わろうとしていますが、あのような曖昧な思想が人類の共通理念になる事はあり得ません。

 

「力こそ全て」という獣の世界で生きる者にとって、知性は勢いを削ぐブレーキです。イザという時にブレーキを踏んでしまう者は、そこでアクセルを踏み込める者に敵いません。ですから、ベクトルとしては反知性であり、野性への回帰になります。この方向性だと人として生きる必要性が無いので、ゆくゆくは悪い意味で人間を辞める事になります。

民主主義の法治国家に生きる現代人で在ろうとするなら、高度に発展した複数の文化を継承し、それをより高める為の手段として「議論」する事を学ばなければなりません。継承した文化を発展させるには、相応の勉強と才能が必要になります。才能乏しく勉強もしない人物は、逆に文化を劣化させてしまいます。

劣化させるくらいなら、貴重な文化をそのままの形で後世に伝える「保守的」な考えの方が正しい場合もあります。しかし、基本的に伝統は常に時代の最先端であるべきです。「保守」が基本スタンスで、基礎も力も持つ人が「進歩」を意識するなら良いのですが、議論するだけの知性を持たない人物は、不毛な対立や停滞を招いてしまいます。

 

議論とは、どちらが正しいかを主張し合い、勝敗をつける為に行うものではなく、止揚・揚棄の為に行うものです。しかし、現実には議論どころか自己の主張をゴリ押しする事しか頭になく、話し合いすら満足に出来ない者の方が圧倒的に多いので、結局は独りで思いを凝らすか、本やWEBサイトなどの創作物と対話をして議論を深めていく事になります。

いわゆる自分会議や、自分で自分を言い負かす自己論破を積み重ねて議論を深め、思想を磨けば、やがて己の進むべき道が見えて来ます。自分会議では社会的なタブーへの抵触を恐れる必要が無いので、相当に突っ込んだ所まで考える事が出来ます。良くも悪くも、他人の存在は思想へのブレーキになるのです。

高度に発展した文化の継承(学習)および、自分会議・自己論破(学問)なくして、個としての成長はありません。そして本物の学習および学問は、穏やかな「明鏡止水の心境」でしか行えません。現代社会は、自己成長の場としては、あまりにも騒々し過ぎるのです。

 

 

文化の上澄みの部分に触れる

現代社会に属しながら、自己成長や個としての成熟を求めるなら、かなり要領よく立ち回らなければいけません。複雑な人間関係からは距離を置き、特定の勢力に属さず、それでいて権力を味方にしなければなりません。しかし、この立ち回りを実現するには、そこそこの人間力が要求されるので、いきなりは出来ません。

なので、若い頃はやむを得ず群れに属し、その群れのボスに従う事になります。それは仕方が無いと割り切って、群れの構造やボスがボスで居られる理由を分析するなどしてください。それと平行して行っていただきたいのが、国の文化の「上澄みの部分」に触れる事です。人間の最低の部分と、最高の部分を知る事で、自己成長や個としての成熟に弾みがつきます。

触れるべき上澄みの部分にも色々ありますが、当サイトとしては神社仏閣巡りをお勧めします。御利益目当てのパワースポット巡りではなく、伝統文化を体験するという意味での神社仏閣巡りです。

 

今でこそ、神社と仏閣で明確に分かれていますが、明治時代の神仏分離令が出されるまでは、神仏習合の時代が長く続きました。仏教は中国大陸経由の外来の宗教であり、神道と習合された事でその影響も受けています。神道もまた大陸文化の影響を受けていますが、元を辿ると日本古来の山岳信仰に行き着きます。

この辺りの勉強をしていくと、日本人とは何かがうっすらと見えて来ます。そして、その日本国民統合の象徴が天皇であり、天皇は国民の為に祈りを捧げる祭祀王です。日本人とは何か、どう在るべきかを思想するなら、ここが出発点になります。複数の国籍を持っている人でも、日本にルーツがあるなら、ある程度は皇室について学ばないとアイデンティティ・クライシスに陥ります。

少々極端な言い方をすると、国家にアイデンティティを求めて、学習の対象である文化と自己を同一視して、個を育む事を怠ると、いわゆる民族主義者(ナショナリスト)になります。逆に国家や文化を軽視すると、いわゆる世界主義者(グローバリスト)になります。国家や文化とは、言わば「育ての親」であり、いずれ感謝の気持ちで巣立つものとお考えください。

 

ここからどう進むかは人によります。管理人は山岳信仰やアニミズムの方に行きますが、それを真似する必要はありません。勉強していく内に興味を持った事や、好きな事を追い求めれば、自然な形で個性が育まれていきます。早い話、「好き」が人を育むと言う事です。

ただし、学習と学問を軽視して、好きな事だけを追い求めると快楽主義者(エピキュリアン)になってしまいます。語源となったエピクロスの思想は、精神的快楽を重視する健全な思想ですが、単に快楽主義と言えば享楽的で破滅的で現実逃避的な思想を言います。

学習の過程において、人間は何らかの「主義」に嵌まる時期があります。一時的に傾倒するのは仕方ありませんが、何かに心酔したままの状態は、個の未成熟を意味します。創造性のプロセスである「守・破・離」の3段階に例えるなら「守」で終わるようなものです。これではいけません。

 

 

自由を求めて逃げろ、そして戦え!

また、好きな事の話をすると、必ずと言って良いほど「好きな事が分からない」とか「何をすれば良いのか分からない」と言う人が出てきます。厄介な事に、この手の人物は現在進行形で、心身共に何者かに完全に支配されているものです。大抵は毒親が支配者なのですが、稀に学校の毒先生だったり、会社の毒先輩や毒上司だったり、毒恋人や毒夫婦だったりもします。

長期間に渡って心身を支配されていると、仮に牢屋の鍵が開いていても、そこから出た後の事を想像してしまい、出て行く事が出来なくなります。自由というものに馴染みが無いと、自由である事に不安や恐怖を感じて、自ら支配される事を望むようになるのです。

その状態から全くの自力で、ボスを気取っている「獣」の支配から逃れるのは困難です。本来なら国の支援があって然るべきですが、日本の司法は議論が足らず形骸化しているので、あまり期待はできません。でも、逃げるしか無いんですよ。何とかして「獣」の支配から逃れるしか無いんです。

 

「獣」相手にキッチリと反抗し、真正面から戦えるなら良いのですが、それが出来ないからこそ問題になる訳です。私も「獣」相手に戦った経験がありますけど、マトモな思考回路を持たず、どんなに情けなく、エゲツない事でも平気でやってくる相手と戦うのは、本当に不毛ですし、精神を病むレベルで疲れます。

個を成熟させる前に、歴戦の「獣」と戦っても、勝ち目はありません。まずは逃げる事、そして自己成長の為に籠城する事、最後に万全の準備を整えてから決戦という形にしないと、今より悲惨な未来が待っています。「獣」相手に慈悲や思いやりを期待しても無駄ですし、「獣」の周りには必ず事なかれ主義の偽善者が居て、その片棒を担いでいます。

逃げるにしても、管理人みたいに高卒で就職すると、底辺の職場で「獣」に囲まれます。これは国の施設でも同じ事が言えるでしょう。悪い環境で生き残るには、自分もワルになるしかありません。でもそれは、本質的には敗北です。「獣」の包囲網から逃れるには、「獣」が住めない環境に行くしかありません。人間性の高みを求めて、より高い世界を目指すしかないのです。

 

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2020年5月10日心の純化と自己実現

Posted by 清濁 思龍