眼病とヒモトレと悟りの話

2020年7月2日2020年note(有料記事), 転迷開悟

今週の動向

今週の某日、寝ている時に急に目が痛くなって、目の周辺が腫れ、涙が止まらなくなって眠れないので、翌日に速攻で眼科クリニックに駆け込んだかんりにんですこんばんは。

駆け込んだ眼科は、凄く良い立地にキレイな建物で、ピカピカの最新機器を備えた立派なクリニックでした。勤務する医師もしっかりした人達ばかりだったので、きっとここなら大丈夫だろうと安心しきっておりました。

クリニックでの検査の結果、角膜に傷がついている事が分かったのですが、その後の院長の問診が笑うしかないレベルで酷かったというオチがついてしまいました。

 

その院長は、居酒屋でクダを巻く底辺企業の中間管理職みたいに下品な話し方をする人でした。また、自分が患者相手の客商売だって事が分かって無いんじゃないかと思ってしまうほど態度が高圧的で、物事を決めつけてかかる断定的な見方をする人物でもありました。

問診の途中で「晩酌して酔っぱらってる時に、何かの拍子に目を怪我したのを憶えていないだけなんじゃないか?」みたいな詩を吐きやがった時は本気で頭に来ましたし、コイツはダメだヤブ医者だと速攻で見切りをつけました。

院長はその後も「病気でこうなる事も無くはない」などとブツブツ言っていましたけど、もう話を聞くだけ無駄だと思ったので、適当に話を合わせて聞き流し、二種類の目薬の処方箋を貰って、すぐさま次の眼科を探し始めました。いわゆるセカンドオピニオンですな。

 

次に行った眼科クリニックは、接客が丁寧で、診察の内容にも納得できるという、良い意味で普通な所でした。そこの院長の問診ですが、角膜に傷があるという診断内容は前のクリニックと同じでしたが、それは古傷みたいなもので、今、私が感じている痛みとの因果関係は薄いと言われました。

前のクリニックで出された目薬にしても、私が感じている強い痛みの割には効力が弱い薬を処方しているし、その用法にも違和感があるという話でした。その後、ふと気になったので、後で前に通ったクリニックの評判を調べてみたら、予報通りボロクソに書かれていましたね~。

あまり具体的な話をすると問題があるので所々ボカしていますが、早い話、クリニックにかかる前に評判を調べましょうという話です。口コミが全てではありませんけど、かなりアレな医者が居るのも事実ですので。

 

私は日頃から気功や丹田呼吸法をやっているので、同年代の平均値よりは若さと健康を維持できていると自負しております。また、隠遁してからはストレスフリーの生活ですし、早寝早起きをして、適度な運動(修行)をして、美味しくて栄養のあるものを食べているので、体調はすこぶる良好です。

それでもケガや病気をする時はするものなので、気が向いた時に健康法や治療法について勉強するようにしています。先日書いたミニマリズムと塩の話の記事もその一環なのですが、最近は「ヒモトレ」というメソッドに注目しています。

「ヒモトレ」とは、たった一本のヒモを体に巻くだけで、自然に全身のバランスが整うというもので、私はその存在をTwitterとYouTubeで知りました。まだ見よう見まねで始めたばかりですが、実を言うと、ちょっとばかり効果が出ているかもと思うフシもあるので、そのうち記事を書きたいですね。

 

 


心身の健康を損ねると、やりたい事や、やるべき事も出来なくなってしまいますね。目が痛くならなかったら、今週は悟り関連の記事をUPするつもりだったのに。

因みに、当サイトは「禅的ミニマリズム」という遁世的なライフスタイルを提唱していますが、そのスタイルは飽くまでも「禅的」であって「禅」そのものではありません。

ですから、悟り関連の記事と言っても仏教や禅そのものではなく、無師独悟の独覚者が仏教や禅をモチーフにして説く独覚乗や、転迷開悟の話になります。

 

禅の道とは違って、独覚乗は純粋な悟りの道です。これは禅の道に不純物が多いという意味では無く、ただ悟る事のみが第一義であるという意味です。余談ですが、本来「第一義」とは仏教用語であり、最高の道理や、究極の真理、勝義諦(しょうぎたい)などの意味を持っています。

悟りには、一発で究極の境地に入る頓悟(とんご)と、段階的に悟りが深まっていく漸悟(ぜんご)があります。因みに、当サイトは漸悟(ぜんご)を前提にしており、まずは初歩の悟り(初関を透る)を目指すべきと考えます。

初歩の悟りとは、上座部仏教で言う四向四果の預流果の事であり、仏教では預流果に達するにはサマタ・ヴィパッサナー冥想(以下、止観冥想)を行う必要があると言い伝えられています。

四向四果や頓悟(とんご)や漸悟(ぜんご)については、下記リンク先の記事で説明していますので、そちらをお読みください。

私説・悟りの定義

 

 

預流果は、見道→修道→無学道の「三道」の内の見道(けんどう・darshana-marga)に相当します。見道は見諦道や見位とも言われており、八正道の徳目でいう正見の完成です。正見の完成とは、苦集滅道の四聖諦や、因縁生起の道理を腑に落とす事でもあります。

仏教をキチンと学ぼうとすると、こういった複雑怪奇な学問を修めなければならない訳ですけど、これは片手間に勉強して身につくものではありませんし、仏教学者よろしく勉強浸けの日々を送っても相当な年月を必要とします。

また、止観冥想にはリスク回避の「刃引き」がされている為、それだけをいくら行じても人が悟りに至る事はありません。意図的に鈍(なまく)らにしてある冥想法に、人を活かし、時には殺すも可能な切れ味を持たせるには、刃を研ぎ澄ます砥石のような「観察の妙諦」を知る必要があります。

 

「観察の妙諦」を知り、それを実践する事には若干のリスクがある為、noteにて有料販売しております。不退転の覚悟と、心の準備が出来次第、ご購入ください。

 

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2020年7月2日2020年note(有料記事), 転迷開悟

Posted by 清濁 思龍