古き神々と、グラウンディングについて

2020年8月22日2020年神社仏閣巡り, グラウンディング

今週の動向

奈良県の丹生川上神社・中社に月参りをしてきました。お盆休みの期間だった事もあって、近くに流れる高見川で川遊びをする人々で賑わっていました。参拝者が神社の駐車場を利用する場合は普段通り無料ですが、川遊びで長時間駐車する場合は有料(1500円)になります。

中社に参拝した後、下社にも参拝して、その付近に流れる丹生川で写真撮影を行いました。高見川と違て、丹生川で川遊びをする人は少ないので、川底が藻?でヌルヌルしていました。でも、川って本来、こういうものですよね。

下社参拝の後に、洞川(どろがわ)の大峰山・龍泉寺や蛇之倉七尾山に行こうとしたのですが、あまりにも観光客が多くて何処にも駐車出来ず、泣く泣く帰宅する羽目になりました。洞川が「西の軽井沢」と呼ばれている事は知っていましたが、まさかこれほどとは。正直、洞川を舐めてました。

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丹生川上神社・中社の御祭神は、ミヅハノメノカミという木火土金水の五元素(五行)のうち水を司る自然神であり、龍神です。古事記では彌都波能売神、日本書紀では罔象女神と表記されています。記紀神話では、イザナミノミコトの尿から生まれた神であり、天照大御神の姉という立場です。

ミヅハノメノカミを主祭神とする神社は少ないものの、伊勢神宮や出雲大社などの大神社には必ずと言って良いほど摂社がありますし、日本各地の井戸や水源にミヅハノメノカミを祀る社や祠が建っています。何故なら、水は人々の生活に欠かせないものだからです。

今は何処にでも水道がありますし、何時でもコンビニや自販機で奇麗な水を買えるので、あまり井戸や水源の大切さを実感する機会は無いかも知れません。そんな我々とは違って、古代人は井戸や湧水地に特別な思いを持っていました。

 

かつて大和朝廷があった大神神社には万病に効くと言われる薬井戸がありますし、日本最初の首都・藤原京にも、神聖視され祭祀の中心となった井戸があったそうです。清らかな水が湧く枯れない井戸は永遠の象徴であり、水汲みは女性の神聖な仕事でした。

水は瑞(めでたいもの)であり、瑞々しいという言葉は生命力に溢れたものの表現です。だからこそ井戸や湧水地は信仰の対象となり、最古の水神であるミヅハノメノカミを祀る事に意味があったのです。

 

水神としては、神道の神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と習合した、仏教系の弁財天(べんざいてん)の方が有名かも知れません。弁財天はヒンドゥー教のサラスヴァティーと習合した水神であり、創造神ブラフマーの妻です。つまり、創造と生命のセットですね。

仏教ではブラフマーを梵天と呼び、帝釈天と共に釈迦世尊に悟りと教えを説くように勧めたと言い伝えられています。帝釈天はヒンドゥー教やゾロアスター(拝火)教の雷神・インドラであり、そのルーツは古代イランにまで遡ります。

梵天と帝釈天はそのようなルーツを持っていますが、仏教においては二大護法善神と呼ばれ、真理や智恵を広めたり、それを守り伝える役割を持つ人達の守護神として崇め奉られています。

 

神仏の姿は、土着の宗教や時代の影響を受ける為、次々に新たな神の姿や、新しい信仰が生まれます。しかし、人々が圧倒的な力の流れの中に異形の神を見出し、生命を育む力の中に美しい女神の姿を見出す所は、今も昔も変わりません。

物事の本質や根本に近づこうとする人は、基礎となった古い神の姿や、初期の教えに心惹かれるようになっていきます。それはスピリチュアルでいうグラウンディングに近い動きであり、地に足をつけようとする所に通じる部分があります。

自分が何処に着地しようとしているのか、何処に着地したいのかを知るのは重要です。その着地点は人によって異なり、例えば日本国内や外国だったり、会社や職場だったり、家庭だったり、あるいは趣味の世界や精神世界だったりする訳です。

 

着地点となる「現実」も、一つとは限りません。今はゲームやファンタジーの世界に没頭していたとしても、その世界をグラウンディングの着地点に選び、その道のプロとなる覚悟を決めたなら、必然的に社会とのグラウンディングも成さなければなりません。

いわゆる「グラウンディングが出来ていない」と言われる状態は、着地点たる現実から逃避しているという事です。因みに、レイキなどのヒーリングの世界においては、グラウンディングは技術であり技法なので、エネルギー的に現実に接続する方向で考えます。

ただ、お金を払ってエネルギー的なグラウンディングをしてもらっても、必ずしも心がついてくるとは限りません。そもそもグラウンディングが出来ていないという事は、自我も確立していないと言う事です。その状態だと自他の境界も曖昧なので、自分の現在地や、何処に着地すべきかも分かりません。

 

我々の皮膚は自己と外界を隔てる境界線でもある為、寒暖冷熱や触感(エネルギー感覚も含む)による刺激を受けると、より明確に境界線を感じ取れます。その刺激は適度で心地よいものが望ましく、未経験の真新しい感覚ならば、より効果が期待できます。

その視点からすると、登山や川遊びなどで自然に親しむ事は一種のグラウンディングであり、神との戯れであり、神事です。記紀や経典・聖典の神話にはファンタジー要素が盛り込まれていますが、日常における神との戯れは、むしろリアル志向と言えます。

とは言え、皮膚感覚だけが自他の境界線では無いので、神と戯れてさえいればグラウンディングが出来るという訳ではありませんし、地元の不良社会やブラック企業のように、決してグラウンディングの着地点として選んではならない現実も存在します。

 

悪い着地点については、ひとりひとりが己の人生から学び取るべきものなので、これ以上は言及しません。飽くまでも重視すべきは、物事の原点に立ち返ろうとする事と、自己と言う現在位置を知ろうとする事の二つだけです。

そして、原点と現在位置を知る事でしか、本物の感謝の気持ちは湧きません。何故なら、感謝は進歩と成長の手応えを実感した時や、己が何によって育まれてきたのかを理解した時に生じる気持ちだからです。

石上神宮に伝わる十種神宝加持秘文に「神威如嶽 神恩如海」という言葉があるのですが、我々日本人にとって、これほどグラウンディングの着地点に相応しい言葉は無いと思います。

 

 

更新情報

noteの記事を更新しました。神の探究や、エネルギーワークとは違う形のグラウンディングについて説明しています。思竜庵時代に書いた記事をリライトしたものですが、主張の内容は当時と殆ど変わっていません。下記バナーのコードを読み取るか、コード画像をクリックすれば、私のページに飛べます。

 

2020年8月22日2020年神社仏閣巡り, グラウンディング

Posted by 清濁 思龍