国会図書館と古代の秘教
今週の動向
いくつか調べたい事が出来たので、京都の国会図書館・関西館に行ってきました。東京本館で作成した登録利用者カードがそのまま使えたので、何の問題も無くスムーズに入館する事が出来ました。建物はとても綺麗ですし、東京より利用者が少ない所為もあって良い雰囲気でした。
入館後、まずは腹ごしらえをしなければと思い、4Fの食堂に直行しました。エレベーターの出入り口からすぐの所に食堂があります。メニューは日替わり弁当あり、御飯類あり、麺類ありで、ほぼ全てがワンコイン以下の値段で食べられます。
管理人は大層なバカッ腹の持ち主で、東京本館では「メガ盛り図書館カレー」を完食しております。関西館では何故か石川県の金沢カレーを提供していたので、比較する為に注文してみました。でも量が・・・うん・・・次からはお弁当を持って行こうかな・・・。
こちらは皇居の周辺を散策した時のTumblrです。メガ盛り図書館カレーは皿ではなく、トレイに直接盛られて出てきました。体感ですがライスは2合ほどあった筈です。スプーンの大きさは普通なので、カレーと比較する事でメガ盛りっぷりを測れるかと思います。
国会図書館の本は、原則として館外に持ち出す事を禁止されています。東京本館にある殆どの本や資料は、PCで申し込みを行って書庫から出してもらう閉架式書庫形になっています。普通に本が陳列されている開架式書庫もありますが、そこに置かれている資料の数は多くありません。
関西館には大きな開架式書庫がありますが、収蔵している資料の殆どは閉架式書庫の中です。まずは開架式書庫を見て回り、そこに探している資料が無い場合はPCで検索したり、貸し出しの申し込みを行うという形になります。
今回、私が調べたかったのは、古代インドのバラモン教や、古代イラン高原の歴史、そして中世ドイツの薬学についてです。どれも私にとっては手をつけた事の無い未知の分野なので、まずは手当たり次第に開架式書庫の本を読み漁ってみました。
開架式書庫には、バガヴァット・ギーター、マハーバーラタ、カーマスートラ、ジャータカ物語と言った有名な古典が並んでいましたが、これらの長編を一日で全てを読むなど到底叶いません。なので、今回はパラパラ読みで体に通すだけにしました。
イラン関連の歴史書も情報量が膨大なので、目次と写真を目で追う事くらいしか出来ません。と言うか、勉強するにしても基礎知識が足らないと、何処から手を付ければ良いのか分からないんですよねぇ・・・。
中世ドイツ薬学について図書館のPCで調べていたら、アロマトピアという自然療法の学際的専門誌がある事を知りました。その専門誌のバックナンバーに、ドイツ薬学の祖とされるヒルデガルト・フォン・ビンゲンの特集があったので、申し込みをして貸し出してもらいました。
何でこんな事を調べていたのかと言いますと、古代の人々はどうやって自己の心身を鍛えたり、癒したりしていたのかが気になったからです。当時は戦争が当たり前のように起き、飢餓や貧困で死ぬ人が絶えず、人権も何もあったものではなく、医学薬学が未発達で呪術に縋るしかないような時代です。
どう考えても今の日本より地獄に近い筈なのに、そこそこ人生を謳歌している人達が居て、後世に残る研究をしたり素晴らしい文化を育んだりしています。ふと、そのタフさは何処から来ているのかと思ったら、時代と背景も調べずには居られなくなったのです。
図書館の帰りに、記念すべき10回目の献血をしてきました。私は万年不足しているO型血液の持ち主ですし、無駄にガタイも良いので、ちょっとくらい血を抜いてもどうと言う事はありません。また、献血の際に無料で血圧や血液検査もしてくれるので、自営業の私には都合が良いのです。
仕事も求道もシンプルに
最近の私はグラウンディングやヒーリングに興味を持ち、自分なりに色々と調べたり、実際にレイキのファースト・ディグリーを受けてみたりしています。何故かと言うと、現代人は忙し過ぎて、悟りを求めて修行をするだけの余力が無いと考えるに至ったからです。
ゆるふわなスピリチュアルが受け入れられた理由の一つに、誰でも片手間に出来る敷居の低さが挙げられるのではないでしょうか。でも、心の奥底では難行であるクンダリニー・ヨーガに挑戦したり、ガチの出家修行をしてみたいと思っている人も多い筈です。
社会人として生きるのは辛いけど、厳しい修行の世界に飛び込むのは、もっと辛いし、怖い。その行き場の無い心情に応えてくれるのが、オカルト色の強い在家修行の体系だったり、ゆるふわなスピリチュアルだったりする訳です。
しかし、宗教色の強い修行体系はオウム真理教を彷彿させますし、ゆるふわなスピリチュアルからは幼稚性を感じさせる気色悪さと商業主義の臭いがプンプンします。それで「何か知らんが、これは怪しいぞ」と警戒されてしまう訳です。話の内容や真贋とは関係なしに。
実際には全く怪しくないものなど存在しませんし、突き詰めれば科学や医学にもオカルトな要素があったりするのですが、怪しさや危険性を感じさせなければ大抵の人は問題視しません。健康法として広く認知されるようになったヨガ(ハタ・ヨーガ)にしても、元は極めて宗教色の強いメソッドです。
一般人は安全性や健全性を第一に考えますが、それらを優先するあまり、内容や本質を見落とす傾向があります。逆に内容や本質を重視する人は、安全性や健全性を考えようとしない傾向があります。そして求道者の資質とは、命懸けで真理を求める精神性を言うのです。
人としての限界を超えるには、極端に針を振り切る覚悟が必要です。例えば、ヨーガの世界的な指導者であるヨグマタ(相川圭子)氏の教えはゆるふわスピリチュアル風味ですが、当の本人はヒマラヤ秘教を命懸けで修行しています。命懸けで修行した所は、レイキ創始者の臼井氏も同じです。
求道において必要となるのは、針を振り切り、突き抜けるだけの意志の強さと、それを支える体力です。どちらが欠けてもいけませんし、才能は二の次です。何故なら、我々が悟るべき真理は単純明快であり、特別な才能や高い能力を必要としないからです。
ヨガのように宗教色やスピリチュアル色を抜いた健康的なメソッドは、商業的には成功するかも知れません。しかし、商業的に成功するようなメソッドには、物事の本質や真理に関心の無い人達しか集まりません。これではメソッドとしては本末転倒です。
キリスト教や仏教などの伝統宗教の時代は終わりに近づいていますが、真理を求め、道を求める人が居る限り、本物のシークレットなメソッドは姿形を変えて伝わっていくでしょう。いくら脱臭され、脱色されても、本質的な部分が変わらなければ大丈夫。
むしろ簡素化されたメソッドは、他のメソッドとの共通点が見出されていくような気がします。個人的には、ヨグマタジのヒマラヤシッダー瞑想のアヌグラハと、レイキ・エネルギーは根源が同じと考えています。尤も、この仮説の正しさを実証するのは、これからですけどね。
かつては人々を惹きつけていた神秘的なストーリーや、専門用語だらけの複雑怪奇な学術は、もう必要ありません。今や精神世界にもミニマリズムの潮流が訪れており、今後は古代秘教と現代学問の融合が進み、各種メソッドも洗練されていく事でしょう。
その洗練の末に残るのは、シンプルかつミニマムで、しかも情熱的でパワフルな「生き方」だけです。修行や行法は「生き方」の中に組み込まれ、日々を自分らしく自然に生きる事が修行そのものと考えられるようになっていく筈です。
人生の目的がエゴの超越や己や世界の「あるがまま」を知る事に集約されれば、どう生きれば良いのかと迷う事も無くなります。とは言え、迷わずワガママを通す事を望む人間の方が圧倒的に多いので、地上天国や仏国土などと言う神秘的なストーリーは永遠に実現しませんがね。
ダメなものはダメと見切りをつけて、必要な事だけに全力投球。こういう生き方をしなければ、極端に針を振り切り、人間としての限界を超えるパワーと覚悟など生じません。個人的には、死と隣り合わせのつま先立ちの日々が古代人の死生観を形成し、そのメンタルを鍛え抜いたと考えています。
更新情報
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン関連で、パワーストーンの記事もUPしました。後でnoteに上級版Verの記事を書きますので、お楽しみに。