自殺予防週間と悟りについて

2020年哲学, 転迷開悟・見道, グラウンディング

今週の動向

毎年9月10日は世界自殺予防デーで、16日まで自殺予防週間となっています。SNSでの中傷が元での自殺する人が絶えない中、注目されて然るべき話題の筈ですが、SNS上では殆ど反応が無いのが気になります。誰も乗ってこないのは、政府や役所が主導する運動だからでしょうか。

ユニセフ(国連児童基金)の調べでは、日本の子供達は経済的に豊かで身体的幸福度は高いものの、精神的幸福度がかなり低いそうです。子供が精神的に不幸なのに、大人が幸福な筈も無く、日本は以前として先進国の中では自殺率が高いままです。

死にたがる人が減らない理由は一つではありませんし、問題ひとつひとつをいちいち取り上げていたらキリがありません。なので、自殺の本質とも言える死の理由や、どうすれば自殺を止められるかについて、管理人なりの考えを述べてみたいと思います。

 

人が死を求める一番の理由は、苦しみからの解放です。心身の病や怪我、不景気やコロナ禍の影響による経済的困窮、己のプライドを守る為、もしくは自殺と言う形の報復・復讐というケースもありますが、自殺と言う行為の根底には何らかの苦しみがあるものです。

苦しみで切羽詰まると正常な判断が出来なくなり、極端な答えを出してしまうのが人間という生物です。辛い時に「死にたい、楽になりたい」と考えるのは誰でも同じですが、辛いからと言って「死ぬ事でしか救われない」と考えるのは早計です。

死は最大の苦しみであり恐怖ですから、何らかの希望があるうちは誰も死のうとは思いません。つまり「これ以上苦しんでも仕方ない、この苦しみの先には何も無い」という絶望が視野を狭め、人に死を選ばせてしまうのです。

 

人が絶望して「もはや自分は死ぬしかない」と思い詰めるまでには、それなりの段階があります。初期の段階で、周囲の人がピンチに気付いて手を差し伸べれば救える可能性もありますが、周囲の人どころか家族ですら気付かないのが実際の所ではないでしょうか。

何故、気付けないのかと言うと、それは単純に絶望の初期段階への知識と理解が足らないからです。自分自身が絶望を経験した事が無ければ、他人が絶望し始めている事に気付いたり、その先を見越して行動する事など出来ません。改めて考えてみれば、至極当然な話です。

繊細でナイーブな性格を持つ人が、大っぴらにSOSを叫ぶ事はありません。ですから、本当は誰かに助けてもらいたくても恥ずかしくて言えなかったり、そもそも自分を助けてもらえるとは思えないとか、助けてもらう資格が無いなどと考えてしまう内向的な心理を理解する必要があります。

 

 

私自身も若い頃に、自己嫌悪と、自己無価値観と、生きる事への罪悪感から、何度も自殺を考えました。事ある毎に父親から「お前なんか要らない」と言われ、愚かで無神経な母親は頼りにならず、学校や職場では誰も私の事など気遣ってくれませんでした。

誰からも相手にされない日々は、私から生き甲斐や、生きる理由を奪いました。楽しみと言ったら、食事と、ゲームと、自慰行為くらいのものでした。虚しさと、寂しさと、社会に適応できない劣等感に苛まれ、毎日のように「早く死にたい」と思っていました。

要するに、私にとって自殺とは、どうにもならない現実から逃避する為の手段だったのです。辛くて苦しい事だらけで、面白くも何とも無い自分の人生から逃げたいと言う気持ちや、自分自身への無力感が強過ぎて、将来への希望や、現実と向き合おうとする気力が湧かなかったのです。

 

この破滅寸前の最悪な状況から脱する為に、奮起して自己啓発に努めた時期もありました。しかし、ハンディキャップやマイナス要素てんこ盛りで、取り組み方も何も分からない状態から始めたのですから、すぐに良い結果が出る筈も無し。

おかげで「何をやっても上手く行かない」と自信を喪失し、周囲からは「独特な人」だとか「痛い人」と嘲笑されてしまいました。この時期は恥ずかしい失敗の時期であり、我が人生の黒歴史であり、最大の自殺の危機であり、重要な下積みの時期という位置づけです。

当然の事ながら、取り組み方を間違えれば、良い結果は出ません。しかし、最初は正しい取り組み方どころか、正しいゴールさえ分からないのですから、失敗の可能性を考慮しつつ、慎重に手探りで行動する必要があります。

 

己が抱える心の飢えから理想に飛びつき、自分自身の在り方を無視し続けた結果の恥っかきですから、反省して二度と繰り返さないようにするしかありません。それで当時の私なりに反省をして、次はどうすれば失敗しないかを考えて行動しました。

しかし、今度は知識や技巧(テクニック)に走り過ぎた所為で、中身の無い上っ面だけの人間になりかけてしまいました。幸運にも、ある失敗が元で「これは仮面を被って生きるようなものだ」と気付きましたが、もし人生に手ごたえと満足を感じていたら、私は未だに仮面を被っていたかも知れません。

何度か挫折を繰り返したおかげで、やる気や努力だけではどうにもならない事もあると思い知りました。しかし、ここで私は自己憐憫に耽ってしまい、自分には何の可能性も残されていないと絶望し、挙句の果てに、そもそも人生と呼べるものが始まってさえいないと考えるようになりました。

 

私は人生において致命的な絶望を三回(三種)経験しましたが、これが一回目の絶望になります。絶望の内容の端的に言うと、親からの愛情不足による自己卑下と、自分なりの処世術が世間に通用しない事による生き辛さでした。

「人生失敗の自覚」は、心が虚無に呑まれるほどの深い苦悩を齎(もたら)しました。しかし「自分はこうなりたい」というワガママな理想と欲望を捨て去って、自己をあるがままに受け止めたなら、人生に成功も失敗もありません。

つまり、この種の絶望は、勢いだけで突っ走ったり、技巧に逃げたりせず、己自身の心の暗部と向き合えるだけの精神的なタフさを身に付け、自身のエゴとの和解を成し遂げるだけの知性を身に付ければ解決すると言う事です。

 

精神的なタフさを身に付けるには、スピリチュアルで言う「グラウンディング」や、坐禅瞑想、各種の武道や筋力トレーニングなどを行うと良いでしょう。心と体は連動しているので、体を鍛えると心も鍛えられます。

心を鍛えると言う事は、固定的な考え方を改めて、物事を別の視点や異なる角度から見る柔軟さを獲得するという事です。早い話、広く視野を持つと言う事なのですが、その鍛錬の先にあるのが上座部仏教の初歩の悟り(預流果)や、独覚乗の「見道の完成」だと言う事は、あまり知られていません。

迷いの中に悟りがあり、迷い無くして悟りなし。生き辛さを強く感じていればいるほど、人生の苦悩が大きければ大きいほど、真剣に答えや道を求めるようになります。況してや自殺を考えるほど苦悩が深いなら、得られる悟りはどれほど大きくなる事でしょう。

 

自殺は決して悪い事ではありませんし、時と場合によってはやむを得ない事であり、或いは最後の救いとも考えられます。しかし、本当に死んでしまったら、悟る可能性はゼロになります。それをもったいないと思うのは、私だけでは無い筈です。

経済的に困窮していても生き残る道はありますし、心無い誹謗中傷に晒された時でも出来る事はあるものです。完全に人生が終わったと思った時でも、実は視野が狭くなっていただけで、まだ先があるかも知れないのです。

希望と絶望は表裏の関係にあり、希望が無ければ絶望もありません。エゴ塗れの人間やカネで動く社会に希望を持ったりせず、超然と、淡々と、地道に正しい努力を積み上げて、己の人生と言う当ての無い旅を楽しめるようになりましょう。

 

「果たして自分は何処に辿り着くのか?」と考えた時に不安になるのは、まだまだ精神的なタフさが足らない証拠です。タフになれば、人生の旅そのものや、隙の無い「無欠の人」になる過程を楽しめるようになります。

そして隙の無い「無欠の人」に近づけば近づくほど、手堅い渡世が出来るようになっていきます。それは群れに取り込まれる事なく孤立もせず、善に拘らず悪に堕さず、成功も落ちこぼれも無い、自分らしい生き方です。

人間社会における最強の処世術は、世を捨てて自己を貫く事です。しかしそれはチンピラよろしく、感情の赴くまま暴力でワガママを通したり、奇妙に練り上げた屁理屈で理論武装をする事ではありません。

 

高みを目指して前進し続け、次々に襲い来る試練を乗り越えていく真の強者になる事や、フリードリヒ・ニーチェが提唱した「超人」として生きる事が「グラウンディング」の最終目標であり、自己を貫く事です。

自己を貫くと言う事は、他人や世界とサシで向き合って争う事でもあります。争いに勝敗はつきものですし、勝利は気分が良く、敗北は惨めなものです。また、敗北が己の死に直結したり、勝利によって相手を破滅させる事もある訳ですから、争い自体を恐れるようになるのは、むしろ当然と言えましょう。

「誰かと争うくらいなら死んだ方がマシ」と考える人も居ますが、その人が争いの場から降りても、他の誰かにお鉢が回るだけです。争いそのものが地上から無くなる事などありえません。現に、今この瞬間にも地球上の何処かで小さな争いや、命懸けの戦いが起きています。

 

古今東西の賢者が言うように、人間同士の争いや戦いの原因は、利益を求めたり、差別を行うエゴやマインドの働きにあります。それを人の業と考えるか、超えるべき課題と考えるかで、その人の生き方が決まります。

極論すれば、生きる事に意味などありませんし、意味などないからこそ誰もが自由に生きる事が許されている訳です。言い換えると、生きる意味を求めているという事は、自由を恐れて束縛を求めているという事でもあります。

心地よい束縛は安心感を齎(もたら)し、厳し過ぎる束縛は生き辛さを感じさせます。そして、度を越した生き辛さは人から気力と体力を奪い去り、やがて死と言う「終わり」に救いを求めるようになります。

 

しかし、己の生命を終わらせなくとも、職場や生活環境を変えてみたり、エゴやマインドの働きや対処法を知るだけでも、割と何とかなるものです。

まずは自分でやるだけやってみて、それでダメなら周囲の人に相談してみましょう。発達障碍が生き辛さやうつ病の原因になっているケースもありますので、心理検査を行っている心療内科を頼ってみるのも一つの手です。

それでもダメなら私が相談に乗りますので、管理人の自己紹介にあるお問い合わせフォームからメールをしてください。いつでもお待ちしております。

 

 

更新情報

noteの有料記事「観察の妙諦」をリライトしました。基本的な内容に変更はありませんが、新たに言葉を付け足してあります。真剣に「初歩の悟り」を目指している人の為に書いた見道の奥義書なので、よろしければご一読ください。