月参りと夢淵デイ・キャンプ
今週の動向
今月も丹生川上神社・中社の月参りに行ってきました。社殿の前に流れる高見川には、神武天皇ゆかりの夢淵があり、夏になるとそこで焚火やバーベキューを楽しむ人が集まります。河原での焚火と言っても直火(地面に直接薪を置いての焚火)はNGなので、焚火台を使わなければいけません。
焚火台を使わないと、焚火で地面が熱せられて昆虫や植物が死にますし、燃え残った炭で地面が汚れます。夢淵がある東吉野町のマナー向上条例では、樹木などの燃えるもの近くでBBQをしたり、炭などの発生したゴミを持ち帰らず放置する事を禁止しています。
逆を言うと、焚火台を使って炭や灰を持ち帰るなら、河原で焚火をしても良いと言う事です。今回はガスバーナーを使ってコーヒーを淹れましたが、次の月参りでは炭火でコーヒーを淹れてみるつもりです。
今回もデイ・キャンプのまとめ動画を作成しました。自分で言うのもなんですが、ツッコミ所がいっぱいのヘタッピ動画です(笑)でも、新しい事に挑戦したり自分だけのスタイルを追求するのは本当に楽しいですし、何度もやらないと上達しません。
この間、奈良県洞川(どろがわ)の白の平キャンプ場でキャンプをした時は、突然の豪雨に見舞われて困ってしまいました。タープの重要性は理解していましたが、ソロでキャンプをする時は単にクルマに乗り込めば済む話なので、敢えてタープを買わずに済ませてきました。
しかし、今後は「茶柱さん」とキャンプする機会が増えるので、思い切って2~3人向けのタープを購入してみたのです。
実際に夢淵の河原でタープを設営してみると、一人でポールを立てる事が難しくて、かなりの時間を費やしてしまいました。また、河原だとペグが刺さらないので、手ごろな大きさの石を運んでロープを結わえてタープを張りました。
骨組みのしっかりした自立型のタープは、設営自体は楽でも持ち運ぶのが大変です。夢淵でのデイ・キャンプは、サッと設営して、サッと撤収して帰る形にしたいので、極力、荷物を軽く少なくする方向で行くつもりです。
キャンプの軽量化を図るなら、テント泊ではなくタープ泊になります。タープの設営は難しいですが、設営時の形状に融通が利くので、極め甲斐があります。最終的にオールウェザー・ブランケットでタープ泊が出来るようになるのが、私の個人的な目標だったりします。
単に日本国内での売れ行きが悪いだけなのかも知れませんが、最近はオールウェザー・ブランケットを店頭で見かけなくなってきました。アメリカの軍隊や、ボーイスカウトで正式に採用されるほど優秀なギアなので、もっと気軽に購入できるようになって欲しいです。
タープと蚊帳を組み合わせれば、夏場の野外活動の拠点になります。防災にも役立ちそうですね。
自宅での生活とは違ってキャンプは何かと不便ですし、慣れたりコツを掴むまでは結構疲れます。そして撤収はもっと大変です。キャンプを楽しむには、やりたい事を詰め込み過ぎず、無理をしないのが肝心です。
キャンプ未経験の人が、いきなりソロでテント泊&焚火料理をしようとすると、割としんどい事になると思います。なので、まずは最寄りの焚火OKな河原や、各市町村の野外活動センターでのデイ・キャンプから始めて、徐々にステップアップしていくと良いでしょう。
最初はキャンプ用のギアがどんどん増えていくと思いますが、自分なりのスタイルが確立すると、次第にギアは減っていきます。そしてそれは「所有」という概念について考え直す、良い切っ掛けになる筈です。
そして、自分自身の生活がシンプル&ミニマムになるにつれて、詫び寂びの趣きが身に沁みるようになっていきます。禅や茶道の達人が口癖のように「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」と云うのは、引き算の美学の末に「空(くう)」という真理に手が届いたからではないでしょうか。
移動式の庵
本来無一物とは言えども、本当に何も所有しなかったら生活が成り立ちません。原始仏教においても「比丘六物(びくろくもつ)」と言って、僧侶が所有する事が許されている6つの道具がありました。
当時の僧侶は樹の下や岩陰で野宿するのが常でしたが、雨期の三ヶ月間はヴィハーラ(精舎)と言われる僧院に住んだそうです。僧院と言っても、最初期の僧院は広場を柵で囲っただけの場所に過ぎず、僧侶達は藁などを編んで簡素な庵を作り、風雨を凌いだと聞いています。
本当かどうか分かりませんが、野外に安置されている石仏(露仏)に見られる舟形光背(ふながたこうはい)や舟後光(ふなごこう)の形状は、僧院の庵に倣ったのではないかという説があります。
僧院や寺院が僧侶の住み家であり修行道場であるならば、テントやタープは野生に立ち返り、自然な心を取り戻す為の拠点です。キャンプにおける採薪や食事の準備は僧侶の作務(さむ)と同様であり、自己への供養です。ならばギアは最小限にして食事も質素にするのが、私の中での正解になります。
上座部仏教の僧侶は料理をしませんが、昔の雲水(旅の禅僧)は托鉢で集めた食材を自炊して食べていました。インド版の雲水であるヨーガのサドゥーも、お布施された米や小麦粉で簡単な料理をするようです。
因みに、サドゥーは丸型飯盒みたいな鍋で米と豆と野菜を煮込んだサドゥーライス(キチュリ・インドの粥)を作り、ヒマラヤ聖者のヨグマタジは修行時代にケーチュリー(キチュリ)ばかり食べていたと聞いています。
食事は生命や生活を支える大切なものです。栄養が足らないと気力と体力が低下して、したい事に集中する事が出来なくなります。食事を改善したら鬱病が改善したという話がありますが、それは食事が悪いと鬱を患い易くなるという事でもあります。
出来ればオーガニックな食材を選びたいものですが、そういった作物は育てるのに手がかかるので決して安くはありません。食材が無理なら、せめて調味料だけでも本物を選びたいものです。
そして食事は、単に栄養だけ摂取すれば良いというものではありません。落語の時そばに「ものは器で食わせる」というセリフがあるように、粗末な味噌汁に花を一輪そえただけで御馳走に変わるように、美的要素を一つ加えれば食事の格も上がります。
渓流の爽やかな風にあたり、清らかな水辺を一時の宿とし、自ら火を熾して、シンプルかつ栄養満点な料理に舌鼓を打つ。タープとポールの簡素な庵を構えて、河原の石上で坐禅する。このような一時に、何の不足があるのでしょう。まことに風流で心豊かではありませんか。
更新情報
ひさびさに公案SSの記事を書きました。香厳智閑禅師の話なのですが、香「厳」と書くべきなのか、香「巌」と書くべきなのかが分からなくなってしまいました。