チベット仏教と、輪廻転生について
今週の動向
愛知県犬山市にある野外民族博物館・リトルワールドに行ってきました。元々は70年代大阪万博の伝統建築物の受け皿として始まった場所ですが、結局は15年もの年月をかけて独自に世界中の古民家を買い集める事になったという経緯があるようです。
ここに蒐集された展示品や、移築された建造物は、全て本物です。驚いたのがチベット・ネパールプラザで、館内の仏画・曼荼羅は現地人の協力によって完成したものだそうです。中共の侵略によりチベットという国が無くなりつつある今、文化財としての価値は計り知れないものがあります。
元々はキャンプ関連の勉強をしている時に、ネイティブ・アメリカンや世界各国の遊牧民のテントを見たくなって、そういう場所は無いものかと探した調べている時にリトルワールドがある事を知ったのですが、我ながらなかなか面白い所を見つけたものです。
チベット・ネパールプラザで購入した布製ランプシェードと、木彫りの蓮印です。他にも欲しいものが色々あったのですが、一応はミニマリストなので控えました。
現在のリトルワールドは食関連のイベントに力を入れています。食に関する私のお勧めはアフリカン・プラザの売店で、ラクダ・ダチョウ・ワニの串焼き、マンダジというアフリカの揚げパン、アフリカ風春巻き、ワニ肉バーガー、オソという山芋のフライなどの珍しい料理を楽しめます。
ネパールとチベット
ネパールはチベットとインドの間に位置する多民族国家であり、複数の人種や宗教が混在している国です。かつては王を頂く王国であり、その当時はヒンドゥー教を国教としていました。また、仏教四大聖地の一つに数えられる釈迦生誕の地・ルンビニという村もあります。
ネパールはサンスクリット語(梵語)の経典を唯一継承しており、チベット仏教の成立にも貢献しています。梵語の地方口語をプラークリットと言い、上座部仏教で用いられる言語のパーリ語もプラークリットに属するものです。
梵語は古代アーリア語に属する言語であり、ヒンドゥー教や仏教でも用いられている言語なので、神秘的な言語と思われがちです。しかし、実際にはこの地方に伝わる一公用語に過ぎません。また、梵語には文字が無く、必ずしも梵字(悉曇文字)とセットではないので注意が必要です。
現在のチベットは中国の武力侵攻により自治区という扱いにされてしまいましたが、かつては歴代のダライ・ラマ法王を頂く仏教国でした。現在はインドのダラムサラに亡命政府(ガンデンポタン)があります。
チベット仏教はネパールから伝来した大乗仏教とチベット土着の信仰であるボン教が習合したもので、現存する中では最も古い形の大乗仏教です。ヨーガ的なタントラの影響も受けている為、かなり神秘的・呪術的な側面が強いのが特徴です。
チベット仏教は輪廻転生を肯定しており、高位のラマ僧は何度も生まれ変わって人々を導くと考えています。チベット仏教の宗派は大きく分けて四つあり、そのうちの一つに数えられるニンマ派にはバルド・トゥ・ドル(チベット死者の書)という経典が伝わっています。
仏教の最終目標は、無上正等覚(正覚)と呼ばれる究極の悟りを開いて「非在の存在」または「宇宙そのもの」となり、輪廻転生の輪から解脱する事です。しかし、正覚を得るのは大変難しく、なかなか出来る事ではありません。
バルド・トゥ・ドルでは、死後に起きる三つのバルドの体験は、生死に関連する深い真理を悟り、輪廻転生から解脱するチャンスだと説いています。また、解脱に失敗した時の為に、より良い環境に生まれ変わる為の方法も説いています。
バルド・トゥ・ドルの説が本当に有用かどうは分かりませんが、輪廻転生から解脱する為の方法論は、昔から色々考えられてきました。それだけ現世は苦しみに満ちた場所であり、生まれ変わりは恐いものと認識されて来たのです。
見道と厭世観
人生が上手く行っている時は、誰だって長生きして楽しみたいと思うものです。しかし山あれば谷ありで、良い事や面白い事ばかりが起きるとは限りません。むしろ、社会は誰かを犠牲にしなければ維持できないので、嫌な事や辛い事の方が遥かに多い筈です。
辛い事ばかりを経験すると「何の為に生まれてきたのか?」という疑問で頭がいっぱいになってきます。誰しも苦しむ為や、負ける為に生まれてきた訳ではないので、このような悩みを持つのは人として当然と言えます。
悩んでいるうちに「生まれてきた理由は分からないが、生まれてきたのなら楽しみたいし、価値ある事も成し遂げておきたい」と考えるようになります。しかし、全力で楽しむのが苦手な人や、本当に価値ある事とは何かと悩む人は、遅かれ早かれ「全てを終わらせて楽になりたい」と考えるようになります。
「自分が死んだら人生は終わる」と考えられるなら良いのですが、輪廻転生なるシステムがあると知ってしまうとそうも行きません。また、自分の事以外を考える繊細さを持つ人が観察と思考を深めていくと、人間が持つエゴの悪性や、理不尽な世界の構造に怒りを感じるようになります。
怒りを以て世直しを考えるならまだ良いのですが、来世もまた似たような人生の繰り返しだと考えると、再び人間に生まれ変わるのが嫌になったり、怖くなってしまいます。かといって輪廻転生の輪から解脱するのは困難ですし、自らの意志で転生を休む事さえ出来ません。
では何故、世界はこうも底意地の悪い作りになっているのでしょうか?
もし、この宇宙を作った創造主が居るのなら、そいつは相当に嫌な奴です。何故なら、その創造主は敢えて善悪の基準や罰則を設けずに、暴力が支配する弱肉強食のシステムを作り上げた事になるからです。
この宇宙がダメな理由はそれだけではありません。よくよく考えてみれば、老化や寿命、けがや病気などのように、生きる事の枷にしかならない事もあります。これでは「せいぜい苦しめ」と言われているのと同じではありませんか。
このように思索を深めていくと、どうしてもグノーシス主義の反宇宙論に近づいて行かざるを得ません。そのグノーシス主義的な思考を更に深めていくと、やがて「人間という生き物や、地球と言う星は、出来損ないだ」という結論に行き着きます。
何故「出来損ない」という結論に行き着くのかを語り始めると果てしないですし、かなりシビアな内容になる事も確定しているので、これからゆっくり時間をかけて修道記の記事で少しづつ説明をしていきたいと思います。
シビアな内容でも大丈夫という方は、試しにカテゴリ・積極的隠遁の記事を読んでみてください。自分で言うのも何ですが、これもまた実にストレスフルな内容なので、多分、全ての記事を読むのは難しいと思います。
積極的隠遁の記事は、私がブラック企業で25年間働き続けてきた苦痛と闘争の結晶です。早い話、人が集まれば必ず揉めるという事なのですが、生活資金を貯めたり社会常識を身に付けるには会社勤めをする必要があり、同時に集団の中でサバイバルする方法も身に付けなければならないのです。
古来より集団の中で上手く立ち回る為の方法論や、人生を楽しく生きる為の方法論が考えられてきましたが、未だに完璧な答えは出ていません。状況によって答えも変わるので、当然と言えば当然かも知れませんが、それ即ち、人類全員が手探りで生きているという事に他なりません。
観察すればするほど、考えれば考えるほど、地球上で人間として生きていく事は無駄に難しい事が分かってきますし、デタラメな悪条件を丸呑みさせられているような気持ちにもなっていきます。でも、それは人としての正常な感覚が残っているという事なので、決して悪い事ではありません。
人としての正常な感覚は、この地球と人類を「正しい方向」に向かわせるべきだと訴えてきます。でも、悟りの見地からすると、その「正しい方向」自体が迷妄であり、そんなものは存在しないという事になるのです。
人としての正しい生き方や、向かうべき正しい方向が無いという事は、虚無や絶望を意味しています。その事実を諦観して受け入れる事が悟りであり、虚無を自由に、絶望を無執着に転換して、あるがままに生きるのが覚者という存在です。
本来、虚無や絶望は単なる事実であって忌むべきものでは無いのですが、人の心やエゴにとっては致命的な猛毒なので、常人がそれを受け入れる事は絶対に出来ません。人が生きるには、充実と希望の感覚が必要不可欠なのです。
・・・それが幻想に過ぎないものであったとしても。
更新情報
チベット仏教の死者の書は、死の直前や、死の直後の為にあるものですが、他にも人間を辞める方法や、地球から出ていく方法がいくつか存在します。
極論すれば夢見術は人間を辞める為の体系に成り得ますし、無明庵の自我復元法にしても、地球から脱出して人間に生まれなくても済むようになる為の方法論として編み出されたものです。
人間のエゴや世界の仕組みを嫌えば嫌うほど、それらの行法や体系の修行に真剣に打ち込むようになりますし、修行者の数が多ければ多いほど、世に出る天才の数と、新たに切り拓かれる道も多くなるものです。