談山神社とデイキャンプ、そして悟り系カルトに騙された人との対談 その5 

2021年2月8日2021年神社仏閣巡り, 対談, 風飡水宿(キャンプ), 大日房能忍

今週の動向

奈良県の談山神社(たんざんじんじゃ)に行ってきました。御祭神は藤原氏の始祖・藤原鎌足(ふじわらの かまたり)で、かつてこの地で天智天皇・中大兄皇子(てんじてんのう・なかの おおえの おうじ)と「大化の改新」と呼ばれる国内改革についての談合を行ったと言い伝えられています。

鎌足が亡くなった後、長男であり遣唐使僧侶の定恵(じょうけい)が大阪からこの地に墓を移して、その上に十三重塔を造立したのが発祥で、明治政府が神仏分離令を出すまでは多武峯・妙楽寺(とうのみね・みょうらくじ)と言う天台宗の寺院でした。

「多武峯」は「とうのみね」と読むのですが、既に私の脳内には「たぶみね」とインプットされてしまっていて正しく読めなくなっています。どうしましょう。

https://ideadragon.tumblr.com/post/641421762316353536/%E8%AB%87%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E4%B8%80%E6%9E%9A%E7%9B%AE-%E5%B1%8B%E5%BD%A2%E6%A9%8B-%E4%BA%8C%E6%9E%9A%E7%9B%AE-%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%96%80-%E4%B8%89%E6%9E%9A%E7%9B%AE-%E5%8F%82%E9%81%93%E9%B3%A5%E5%B1%85-%E5%9B%9B%E6%9E%9A%E7%9B%AE-%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E6%9C%AC%E6%AE%BF

 

 

談山神社に行ったのは、鎌倉時代の禅僧・大日房能忍(だいにちぼう のうにん)ゆかりの地だと知ったからです。能忍は藤原氏の子孫であり比叡山・延暦寺の天台学僧でもありましたが、何故か禅に傾倒して「達磨宗(だるましゅう)」という仏教宗派を立ち上げています。

比叡山で能忍が学んだ禅は、大陸で最澄が学んだ北宗禅と思われます。恐らく能忍は、延暦寺にある北宗禅関連の書物を熟読したのでしょう。しかし、能忍は正当な法嗣に就いて禅を修行した訳ではないので、偽禅者呼ばわりされる事が多かったようです。

その為、能忍は自筆の文書を持たせた二人の弟子を大陸に派遣して、中国臨済宗の印可の証を持ち帰らせます。これにより能忍の禅と悟りは本物と認められました。そして京都で禅宗を立ち上げようとしましたが、天台宗や法相宗の反対により挫折し、多武峯・妙楽寺に逃げ込み、そこで死去します。

 

能忍は無師独悟の独覚禅僧です。臨済宗・黄龍派(おうりょうは)の法嗣である栄西禅師からは「戒律を無視する形だけの禅」と批判されましたが、それだけでは能忍の禅の真贋は測れません。「破戒=ニセモノ」の構図なら、浄土真宗の親鸞や、臨済宗・大徳寺派の一休禅師も破戒僧ですからね。

能忍の良い所は、己の悟りが本物か否かを、しっかり確かめようとした所にあります。一言で言えば「能忍には自信があった」という事なのですが、意外とこれが出来ない、またはしようとも思わない自称・覚醒者が多いのです。

例えば、管理人のキャンプ仲間である「茶柱さん」を酷い目に遭わせた偽覚者・伊勢菊理などは、積極的に坐禅老師や他の自称覚者と関り、悟りを認めてもらおうとしましたが、結局は誰からも認められませんでした。

 

掲示板やブログ等の活動で有名になった覚者の中にも、残念ながらニセモノが混じっています。後光が射しているとか、六神通が発現しているとか、身体に三十二相八十種好が出ているのなら一目で分かりますが、そういう事はありません。

高名な僧侶でも悟っているとは限りませんし、有名な覚者とコラボしているからと言って本物とは限りません。逆に、酒飲みで下ネタばかり言っている覚者らしからぬ覚者も居ますし、毒親持ちのゲーマーでコミュ障な覚者が居たりもする訳です。

そういう覚者が居るという事は、悟りへの敷居が低くなるという事でもあるので、むしろ多くの人々を安心させる存在として歓迎すべきだと思います。でも、世の中には「超人的な人格者」を崇め奉り、慕い、依存するのが大好きな人達の方が多いんですよね・・・。

 

 

デイキャンプと対談

今月も「茶柱さん」と一緒にデイキャンプに行きました。流石にお互い慣れたもので、黙々と自分でやりたい事をしていました。私は炭火焼き鳥丼を作りましたが、茶柱さんはシチューや焼きニンジンを作っていました。

私としては焼き鳥丼のつもりでしたが、オピネル・ナイフと買ったばかりのケヴンハウンのカッティングボードを使ったら、北欧風のワンプレート・ランチになってしまいました。まあ、これはこれでいいか。

本当は鶏もも肉の串焼きを作りたかったのですが、途中で挫折して鋳鉄スキレットで料理をしました。炭の香りがする焼き鳥丼は、焼き網を使わないと無理かも知れません。

 

昼食後、他の料理を作りながら茶柱さんと色々な話をしました。話の内容は、毒親の事や、鬱病の事、伊勢菊理についての事でした。鬱病の方は投薬治療が功を奏して、ちょっとだけ良くなってきたそうです。確かに以前よりも声に張りが出て、表情も豊かになってきました。

ただ、まだ根本的な問題が解決していないので、精神的にショックな事があると急激に落ち込んでしまいます。まだまだ社会復帰は難しいようですが、焦らず治療に専念してもらいたい所です。

今回の対談は内容が良かったので、本人の了解を得た上で記事にしました。

 

 

以下、管理人=管  茶柱さん=茶

管「今回のデイキャンプは、黙々と料理に徹していましたね。」

茶「焚火や料理に慣れてきて、少しだけ要領が分かってきたので、楽しめるようになってきました。」

 

管「そりゃあ良かった。何だかんだで、割と成長が早いですよ。」

茶「今回はクリームシチューとコーヒーとバナナパンを作りました。次回も色々試したい事があります。」

 

管「結構作りましたよね。ただ、ちょっと品数が多いかな。これではのんびり出来ませんよ。」

茶「確かに色々と盛り込み過ぎて疲れました。私は一気にやっちゃいたいと思う所があるんです。」

 

管「普段もそういう傾向がありますよね。」

茶「何故でしょう?」

 

管「発達の所為かも知れませんが、何かとガッツクのは機能不全家庭の出身者の特徴みたいなものです。余裕が無いし楽しむのも下手だったりとか。」

茶「満足感を得ようとして、やたらと張り切っているような気がします。」

 

管「精神的な飢えからくる焦りかも知れませんね。だとしたら、あまり良く無いかな。」

茶「それはあるかもです。」

 

管「私もそうでしたよ。若い頃は寝る寸前までTVゲームをやって、目にクマを作って、ヤクザな先輩達からオメェは何やってんだとバカにされたものです。今にして思えば、ただの現実逃避でしたがね。」

茶「私もそういう傾向があるかもです。アプリゲームとか寝る前までやっています。」

 

管「その気持ちが分かるのが、何かやだな(笑)」

茶「過去にあった嫌な事を思い出すと、辛くて耐えられないんです。ゲームや食事などで気を紛らわせないと頭がおかしくなりそうで・・・。」

 

管「基本的にストレス耐性が低いですよね。いつも精神的にギリギリで・・・」

茶「はい・・・。いつも不足感や欠乏感があるので、何をやっても楽しめないんです。でもキャンプだけは凄く充実感があって満たされます。デイキャンプは六時間ですが、あっという間です。」

 

管「楽しい時はそんな感じですよね。」

茶「キャンプの良い所は、誰かに文句を言われるストレスが無い事です。他人の目を気にせず、自分のしたいように出来ます。」

 

管「途中で私が焚火についてのアドバイスをしたら、一気に気分が落ちていましたよね。」

茶「あれはなんなんでしょう?」

 

管「良くは分かりませんが、多分、プライドが傷ついたのかも知れませんね。」

茶「私はあまり自信満々な人ではないと思いますけど?」

 

管「個人的には、自信が根拠の自尊心と、全能感が根拠のプライドを分けて考えています。」

茶「全能感とは何ですか?」

 

管「根拠も無く、自分には何でも出来ると思える感覚の事ですよ。全能感は幼い子供なら持っていて当然の感覚ですが、視野が広くなって精神的に大人になると自然に無くなります。でも、大人になっても全能感を引きづっているとトラブルのもとになります。」

茶「それ、確かに私にもあります!」

 

管「私もこれで苦悩しました。そして自分を傷つけ、痛めつける事で全能感を消そうとしたり、自分自身を叩き直そうとしてしまいましたが、もちろん失敗に終わっています。」

茶「他人に見られたら恥ずかしいというのが先に来てしまって、自分と向き合うどころでは無いんです。自分自身の事なのに、何で他人の視線ばかりが気になるのか・・・。」

 

管「良くも悪くも、自己を受け入れるのは精神的な安定感を得る上で大切な事ですよ。ですが、自身の欠点まで受け入れると成長が止まります。欠点と向き合うのは大変なので、大抵の人はここで足踏みですね。」

茶「なるほど。」

 

管「大抵の人は、自分と向き合う事より、群れの中に入ったり、他人を攻撃する事を憶えてしまいます。身も蓋も無い言い方ですけど、私はこれをチンピラ化と呼んでいます。」

茶「チンピラ化とは、凄い呼び方ですね・・・」

 

管「茶柱さんの話を聞く限りでは、伊勢菊理はチンピラ化していたと考えて間違いないと思っています。」

茶「はい、確かに。我ながら酷い奴に引っかかってしまいました・・・。」

 

管「引っかかるというより、伊勢菊理の奴が茶柱さんの人の良さや、脇の甘さに付け込んできたんですよ。悪いのは奴の方です。」

茶「今は殆ど残っていませんが、以前の私には酷い悟り系のバイアスがあって、伊勢菊理から理不尽な事を言われても、アンタの為やとか、アンタを悟らせる為やなどと言われると、そうかも知れないと思って黙って従っていたんです。」

 

管「一般的には、悟った人は凄い人と思われていますし、悟らせる為、悟りの大楽になる為と言われてしまうと反論なんかできません。自称覚者に対して、一般人では打つ手が無いんです。それが分かっていたら、伊勢菊理のような態度は卑怯だと言う事も分かる筈です。」

茶「私は既に実家から出ていて他に居場所が無かったですし、伊勢菊理にお金を取られて、これ以上損をしたくない、元を取りたいという気持ちもありました。」

 

管「人間関係の規制や、情報の囲い込みもやられていましたよね。完全にマインドコントロールの手法です。」

茶「否定に次ぐ否定、罵声に次ぐ罵声で思考力や判断力が低下して、何が正しいのかが分からなくなっていくんです。あれは本当に怖いです。」

 

管「カルトや毒親は、他人の自信や自立性を奪って奴隷にしようとするから質が悪いんですよ。」

茶「アンタは何もできないとか、ダメなアンタを養ってやっていると言われて、日常的に打ちのめされていました。毎日脅されていたので、怖くて逃げられもしなかった・・・。」

 

管「本物の覚者はマインドコントロールなんかしませんよ。例えば、禅寺の僧堂では僧侶を毎日叱り続けて、徹底的に個人を否定しますが、主体性までは奪いません。」

茶「禅の世界って怖いですね・・・。でも、個人の否定と主体性を奪う事は違うのですか?」

 

管「もちろん違います。でも、普通は違いなど分からないですよね。禅寺の伝統に属する話ですし。」

茶「白隠禅師が(正受老人に)ボコボコにされたと知って、私が色々とダメだから伊勢菊理にボコボコに叩き直してもらってると考えていました。」

 

管「判断の難しい所ですが、毒親持ちは自分を虐待する事で鍛える事が出来ると思い込む傾向があります。そういう人が個人を否定されると自殺まで行きますよ。」

茶「自分の命を削って、今生を伊勢菊理に捧げるべきだと考えてしまいました。」

 

管「そういえば、オウム真理教もカルマ落としという言い方をしていましたね。悟りの見地からすると、善も悪も無いのに。」

茶「人の役に立てば、自分の価値を認めてもらえると思っていました。当時の私にとって、それこそが善だったんです。」

 

管「そんな考え、誰かに利用されるだけですよ。寂しさや虚無感に付け込んでくる悪党なんぞ、この世には掃いて捨てるほど居ますし。」

茶「世の中には、伊勢菊理みたいな奴がウジャウジャ居ると教わって愕然としました。でも、今のままではまた騙されるかも知れません・・・。」

 

管「カルトはそういう不安に付け込んでくるんですよ。例えば、これを買えば(すれば)もう誰にも騙されなくなります!みたいな。」

茶「うーん・・・まさに不安ビジネスですね。」

 

管「本質的には、この宇宙にモラルや良心など存在しません。それは人間同士の間でしか通用しない甘っちょろい価値観です。それは大自然や野生動物達を見れば分かる事です。早い話、肉食動物の捕食行為は悪なのかという話ですね。弱肉強食は世界の掟であり、戦わずして生きる術はありません。

とは言え、直接ぶつかり合う必要は無いので、自分なりの護身術を持てば良いだけです。護身さえも否定したら、あとはエサになるしかないです。戦いの無い天国のような安住の地は、この世のどこにも存在しないのです。

しかし、毒親持ちで家庭内が安心出来る場所じゃなかった人は、癒しと天国を求めずには居られません。だから安住の地が何処かにあると信じて現実から逃げ回るか、救済という名の幻想に頼り縋ってしまうんです。

心から安心できる安全地帯は、自分の力で作り上げるしかありません。それが生きる努力というものです。形としては隠遁でもBライフでも構いません。世の中、何でもありですよ。」

茶「・・・私は自分自身の夢ではなく、伊勢菊理の夢に乗っかってしまいました。乱暴な誘い方だったけど、それを振り切るだけの抵抗力も無かった。だから死にかけた、殺されかけた・・・。」

 

管「悟りについて勉強すれば、相当なクズでも悟ったフリくらいは出来るようになるんですよ。伊勢菊理は阿部敏郎さんや向禅師の話を引用する事が多いので、そこだけ聞いていたら誰だって本物かと思ってしまいますよ。でも、話の全体を見ると、違和感やハリボテ臭を隠せていない。」

茶「ハリボテ臭とは?」

 

管「いくら他人の言葉をツギハギしても、根本になる悟りの体験が無いと、話に統一感が生じないんです。私はその胡散臭さや違和感を、ハリボテ臭と呼んでいます。」

茶「ふとした時に伊勢菊理から感じる違和感を大事にするべきでした。悟りバイアスの所為で、覚者の話は理解出来ないとか、私が悟っていないから分からないだけだと思い込んでしまいました。今にして思えば、伊勢菊理と向禅師との対談は話が噛み合ってなくて、意味不明だったのに。」

 

管「あの対談を聴く限り、伊勢菊理は覚者を僭称している割りには悟りについて詳しくないし、自分が本物かどうかもロクに調べていません。これはありえない事です。大日房能忍を見習えと言いたい。」

茶「うーん。」

 

管「悟りについて調べていけば、必然的に他の覚者や仏教などにも詳しくなります。自分の体験と他人の体験を比較しなければ、自分なりの悟りの定義や、弟子への指導法も生まれません。」

茶「伊勢菊理には、自分は悟ったというエゴしかありませんでした。」

 

管「百歩譲って伊勢菊理が本物の覚者だったとしても、人間としてあまりに未熟です。自分自身が未熟なのに弟子の指導など出来る訳が無いですし、悟ってさえいれば導師が務まると言う事もありません。と言うか、指導の下手な導師など無用です。」

茶「だからと言って、謙虚であれば良いという訳でもないんですよね。」

 

管「やたら腰が低いのはスピ系ティーチャーの特徴ですね。少しでも偉そうだったり威圧感があったりすると、他人を見る目の無い人達は、それだけでみんな逃げていきますからね。それでは商売あがったりです。」

茶「営業ですよね、あれは。伊勢菊理の弟子にされてから、そういうのだけはいっぱい見てきました。」

 

管「悟りを経験していない人が、本物の覚者とカルトを見分ける手段はありません。むしろ下手に知識があると逆に騙され易くなる事さえあります。それで疑心暗鬼になって誰彼構わずニセモノ呼ばわりするのは愚かな話ですが、危険を嗅ぎ分ける能力を養う必要はあります。」

茶「それはどうすれば養えるのですか?」

 

管「自分や他人の自立性や主体性を尊重するより他は無いです。先にも言いましたが、厳しい禅寺は個人を完全否定し、自我を破壊しにかかりますが、自立性や主体性までは奪いません。逆にカルトは言葉巧みに誉めそやし、依存させて自立性や主体性を奪いにかかります。」

茶「スピや宗教と関わっていない普通の人達はどうなんですか?」

 

管「普通の人達は、自己愛で人生の荒波を乗り切ります。もし偏見や判断ミスで他人を傷つけたとしても、あまり反省なんかしませんし、場合によっては言い訳したり逆ギレしたりで保身に走ります。これこそがエゴの働きです。」

茶「なにそれひどい。」

 

管「自我の発達は人類だけに許された特権です。自我を高度に発達させれば、非常に豊かな世界を創造する事が出来ます。そして、人間の世界に野生の掟を持ち込むのがチンピラ化です。悟った人はエゴを知り、使いこなし、ワンネスのいいとこどりをして余生を楽しみます。」

茶「あまりピンと来ない話ですが、ちょっと羨ましいかもです。」

 

管「許せないのが毒親です。毒親連中は我が子のエゴを未発達成長不全に導くんです。何故なら、その方が扱いやすい人間になるから。毒親自身も成長不全なので、子供が成長して自分を追い抜くのが怖いんですよ。

エゴは抵抗力の源であり、決して誰かの言いなりになろうとはしません。早い話、エゴは生意気さそのものなんです。正常な発達を遂げたエゴは自己実現と言う高みだけを目指すようになりますが、歪な成長を遂げたエゴは他人を支配し従属させようとします。

未熟なエゴは自分と他人の境界が曖昧なので、この世の全てを自己の延長線上にあると錯覚します。未熟なエゴの持ち主と出会った時に、エゴに対する抵抗力が無いと、未熟なエゴに自我を取り込まれてしまうんです。本質的には、支配や主従関係など、不健全で気持ち悪い事なのに。」

茶「確かに、そうですよね。」

 

管「毒親と言えども、愛し愛されたいという気持ちはあります。でも、他人を愛する能力が無いんです。毒親持ちも、愛されたくて、苦しくて、つい無理な願いをしてしまいます。それは毒親と同じ気持ちと理解して、諦め、手放すのが全ての始まりです。

我々はチンピラや毒親とは違う道を歩まなければなりません。人間はチンピラ化したら終わりなんです。その先には何も無いという事を肝に銘じてください。」

茶「はい・・・。」

 

管「チンピラ化した連中と違う道を歩むなら、一度、精神を真っ新(まっさら)な状態に戻す必要があります。禅寺の僧堂では今でもパワハラ染みた真似をしていますが、あれも一つのやりかたです。別にああいった形でなくても、人間社会から一時的にでも逸脱すれば事足りますけどね。」

茶「そうなんですね。」

 

管「精神を真っ新にするのに最も良い方法は、文明から離れて自然の中で一人になってみる事です。手段としては登山やキャンプなどがありますが、それは好きにすれば良いと思います。もちろん、私としては風飡水宿の行をお勧めしたい所ですが。」

茶「私が独りで居るのが好きなのは、他人のエゴへの抵抗力が低いからなのでしょうか・・・。」

 

管「他人の力と拮抗していれば、精神的に押し負けて疲れる事も無くなりますよ。」

茶「私、強くなりたいです。もう誰にも負けたくないです。」

 

管「一歩づつですよ。まずは自分自身を知り、良い所も、悪い所も受け入れる所から始めなくては。」

茶「はい。」

 

管「これは社会学者の加藤諦三先生の言葉ですが、愛とは受け入れる事だそうです。このセリフを私なりにアレンジすると、愛とはその対象をあるがままに受け入れる事となります。ですから、まずは自分自身を愛し、長所も短所も受け入れましょう。そうすれば他人を愛する事も出来るようになります。」

茶「はい、分かりました。そこから始めます。」

 

 

更新情報

 

禅的ミニマリズム・座具編をUPしました。臨済宗の禅者ならお馴染の単布団についての話です。応量器に関心のある方は、漆器編もどうぞ。

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