明治天皇陵と、隠遁系スピリチュアルとしての「見道(けんどう)」
今週の動向
これまで管理人は大した根拠も無く、東京原宿の明治神宮に明治天皇が葬られているものと思い込んでいたのですが、関西の神社にやたらと明治天皇の遥拝所がある事に疑問を抱き、調べてみたら京都伏見に明治天皇陵があると知って、思わずひっくり返ってしまいました。
いやはや「思い込み」とは、実に恐ろしいものですなぁ・・・。
因みに、明治天皇陵は豊臣秀吉が築いた伏見城の跡地(桃山丘陵)に作られており、その敷地内の運動公園には模擬天守閣があります。時期的に良い感じに桜が咲いていてくれたので、存分に写真撮影を楽しむ事が出来ました。
明治天皇陵から自動車で30分程度の所に、関西最大級の店舗と噂されているアルペン・アウトドアーズがあります。先日開店したキャンプデポ・橿原香久山店とは品揃えが全然違うので、キャンプに関心がある方はどちらにも行ってみる事をお勧めします。
因みに、アルペン・アウトドアーズは黄檗宗・萬福寺に近い所にあります。
カテゴリ・修道記と、ブログ内観法
当サイトでは2019年5月1日から、日記形式のカテゴリ・修道記を始めました。このカテゴリでは、その週の出来事や、学んだ事や、思考の内容を書いているので、あまり纏まりが無くゴチャッとした感じになっています。
カテゴリ・修道記をこういう形にしたのは、別カテゴリで「資産的なまとめ記事」を書くという前提があるからです。つまり、一本のまとめ記事を書くのは膨大な時間と労力がかかるので、毎週少しづつ各カテゴリの記事を書き溜めていって、最後に纏めて資産記事を書くスタイルにしたのです。
何故このような小出しのスタイルにしたのかと言うと、私が当サイトで伝えようとしている内容は膨大であり、キチンと話を纏めてから世に出そうとすると何時まで経っても記事が書き上がらないからです。
また、資産的な記事は時代の変化に対応させる為にリライトする事が前提になりますが、過去記事はその時にしか書けないものが多いので、出来るだけ残して後で読み返せるようにしました。
ブログの記事を書くという事は、自分自身と向き合って内面に潜む思考や感情を言語化して表現する事であり、言語化した表現を武器にして世界そのものと渡り合う事でもあります。そしてそれは、下手な瞑想法よりもよほど効果が期待できる「ブログ内観法」とでも言うべき行法になります。
100均のノートで日記を書く事でも内観は出来ますが、その場合は他人に見せる必要が無い為に自己満足で終わりがちですし、ネット上での活動を収益化する方法を身に付ける事も出来ません。
何であれ収益化を見据えて働かないと、自分で稼ぐ為のスキルは身に付かないものです。主体性の無い指示待ち人間は、いくらでも替えの利く社畜か、迷惑で使えない老害にしかなれません。
今年の4月1日から「70歳就業法」が施行されますが、そうなればますます向上心や自立心が欠落した社員は居づらくなります。終身雇用や「正社員=生活の安定」の図式はとっくの昔に破綻しており、もはや過去の歴史や人々の記憶に基づく「思い込み」の残滓になり果てています。
今の時代は、例え大会社の正社員であっても転職や独立起業を視野に入れなければならないし、潰しの利かない職に就いているならキチンと収益を出せる副業を持たなければいけません。
副業というと何となくネガティブなイメージがありますが、それは手軽に稼げる事を売りにした危ない仕事の情報が多いからです。実際、マルチ商法紛いの仕事や、株式投資や仮想通貨のようにギャンブルと大して変わらない仕事の情報の多い事と言ったらもう・・・。
しかし、ブログは日記の延長線上にあるので、毎日コツコツと着実に努力を積み上げる事が出来ます。良い記事を書けば読む人の為になりますし、来訪者数(PV数)は一目で分かるので遣り甲斐もあります。
他の副業とは違って先行投資がほぼゼロですし、少しでも時間に余裕があれば記事を書く事が出来ます。最悪スマートフォン一つで収益が出せるようになるのも魅力の一つで、私も会社員時代は行儀が悪いと思いつつ、仕事の合間や食事の最中にブログの記事を書いていました。
ブログの書き方についてですが、最初は比較的書き易い日記・雑記から始めて、一つ一つの記事に丁寧にオチをつけていけば、次第に自分の得意分野が見えてきます。自分の得意分野が見えてきたら、日記・雑記とは別の専門・特化型のサイトを作り、関連広告を貼って収益化を目指しましょう。
収益化の方法については、既に別記事を書いていますので、そちらを参考にしてください。
今はSNS全盛の時代ですが、SNSを収益化するには自サイトやブログという活動拠点が必要になります。早くも時代が終わりつつあるYOUTUBEの動画にしても、自サイトが有るのと無いのとでは広報力に決定的な差が出ます。
各種企業も自社サイトや広報用SNSが無いと話にならない時代なので、Wordpressでのサイトの作成や維持管理、各種SNSで広報活動が出来る人材を欲しがるのは当然です。そこに写真の技術かイラストの能力が加われば、自立への道は開かれたも同然です。
自力で仕事を創り出せるようになれば、輝かしいセミリタイアや隠遁生活の未来が見えてきますし、独立起業の未来を見据えて会社員として働くのであれば、しんどい人間関係も「今だけ出来る大切な学び」と割り切れる筈です。
世の為、人の為にブログの記事を書くことは、精神的・経済的自立と内観瞑想を兼ねた素晴らしい人間活動であると言えます。ネット稼業も厳しい競争の世界なので飛び込むには勇気が要りますが、社畜として40年生きるより、起業して10年生きる方が確実に人生は豊かになります。
もしブログで収益を出せるようになれなかったとしても、コミュニケーションの手段や、内観行法として続ければ良いのです。つまり、ブログ活動はお金では買う事の出来ない「人生経験」を手に入れる事も出来るのです。
ブログ内観法と見道(けんどう)
人生経験が足らないと、悟りという人間卒業のチャンスも巡って来ません。何故なら、心底から真理・真実を求めるに足るだけの十分な理由が無いからです。真理・真実を求めていないと言う事は、これ即ち「エゴを満たす事しか考えていない」という事です。
エゴを満たす事しか考えていない人間は、動物以下の愚かしい存在に過ぎません。愚かな人間が求めるのは自分の都合で世の中を捻じ曲げる「力」だけなので、生産性というものがありません。辛辣な言い方になりますが、そんな奴らに作れるのは破壊か威嚇の道具くらいのものです。
他人が持つエゴの愚かさを知り、その可能性の無さに絶望した人は、自分もまた醜いエゴを持つ人間である事に絶望します。しかし、その絶望の淵に立たなければ、脱エゴや真理・真実の探求は始まりません。
人間社会はエゴとエゴがぶつかり合う場所であり、エゴの叩き台であり、精錬の場です。精錬済みの磨かれたエゴは、精錬前の未熟なエゴに嫌悪感を抱き、より崇高な道を求めるようになります。
しかし、世の中には精錬前の未熟なエゴの持ち主の方が圧倒的に多いので、精錬済みの磨かれたエゴの持ち主は、世の中に生き辛さと居場所の無さを感じるようになっていきます。
このような精神状態になった人は、独立起業するか、隠遁生活に入らないと、かなりの確率で心を病んでしまいます。優秀な人ほど鬱病を患い易いという話がありますが、それはこういった事情があるからです。
人として成長すればするほど生き辛くなるのであれば、誰の前にも独立起業や隠遁生活への道が開かれていなければなりません。そしてその道は少数派の人間が歩む道なのですから、独学・独習が容易でなければ用を成しません。
私としては、非日常なスピリチュアル・セッションに参加するより、日常の延長上にあるものを自らの道標にするべきだと考えます。それがブログ内観法であり、風飡水宿ノ行であり、神社仏閣巡りであり、夢見術であり、武術であり、気功であり、坐禅である訳です。
私が提唱する見道(けんどう)は、それらの行法によって蓄えた力を「観察」に極振り・一点集中する事で、無師独悟という目的を果たす為の道です。見道においては、全ての行法は「観察」の前振りであり、準備体操に過ぎないという位置づけなのです。
本来ならば、仏教寺院がしっかりと「観察の妙諦」を伝えていれば事は済むのですが、残念ながら仏教特有の厳し過ぎる様式美がそれを阻んでいます。と言うか、普通に生きて働くだけでも大変なのに、誰が好き好んでもっと辛い修行をしたがるのでしょうか。
悟りの修行に相応しい場が無いのであれば、自分の手で作らなければなりません。そしてその修行の場は、外界にでは無く、己の内面に作るのがベストの選択です。何故なら、己が心の内に建てた寺院は、何人たりとも害する事は出来ないからです。
修行目的の集団や団体を作れば、必ず人間関係のいざこざが起こり、遅かれ早かれ腐敗します。ならば、最初から独りで歩む事を前提にすれば良いし、ネット上ならばそれが可能です。
私はカテゴリ・修道記の記事という形で、自分自身の歩みを残していきます。その足跡をどう扱うかは、みなさん次第です。ただ見て楽しむも良し、何かの参考にするも良し、要点だけ掻い摘んでいくも良しです。
ただし、家庭内、学校内、職場内などにおける有害な人物からのハラスメント対策については、緊急性が高い上に十分な記事が書けていない状態なので、随時メールでの相談を受け付けています。初回の相談はメール三回まで無料なので、よろしければご利用ください。
相談のメールはこちらの記事にあるお問い合わせフォームにご投稿ください。お待ちしております。