明日香村の旅と、神仏習合の始まりについて

2021年神社仏閣巡り

今週の動向

神仏習合の歴史について調べていたら、聖徳太子の足跡を求めて奈良県・明日香村全域を巡る事になりました。明日香村と言えば日本初の仏教寺院である飛鳥寺(あすかでら)がある所ですが、当時の政治の舞台は飛鳥寺の西側にある甘樫丘(あまかし の おか)周辺だったようです。

飛鳥寺は豪族・蘇我氏(そがし)が建立した氏寺であり、有事の際には城としての機能も果たせるように作られましたが、初の女性天皇である推古天皇(すいこてんのう)と、その摂政を勤めた聖徳太子も深く関わっていた為、実質的に推古朝廷の官寺(かんじ)のようなものでした。

推古天皇は蘇我馬子(そが の うまこ)が用意した豊浦宮(とゆら の みや)に住み、そこで祭祀と政治を行いました。しばらくして小墾田宮(おはりだのみや)に移りましたが、どちらの宮も蘇我氏が所有する聖なる国見の丘・甘樫丘(あまかしのおか)の近くにあります。

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当時の有力な豪族である蘇我馬子は、同じ有力な豪族である物部氏(もののべし)を滅ぼし、朝鮮半島・韓三国の一つである仏教国の百済(くだら)との関係を深めて、日本に僧侶や技術者を派遣させています。

蘇我馬子は「蘇我王朝の樹立」という理想の為に、百済国と当時の先進文化である仏教を利用していたようです。また、百済は百済で大国の隋の圧迫から逃れる為に、日本列島の乗っ取りを画策していたようです。

推古天皇と聖徳太子は遣隋使を送って隋の文化を吸収しましたが、隋の冊法体制に入ろうとはしませんでした。聖徳太子としては、出来る事なら韓三国を味方につけて、大国の隋に飲み込まれる事なく上手く付き合っていきたいと考えていたのでしょう。

 

聖徳太子には天皇制を維持しながら日本を仏教国化するという夢があり、その精神は彼が制定したとされる17条憲法にも現れています。一条に「和を以て貴しと成す」、二条に「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」、三条に「(天皇の)詔をうけては必ず謹め」とあるのは、その為です。

最近では聖徳太子は実在しなかったという説や、聖徳太子=蘇我馬子という説が人気を博しているようですが、そうなると蘇我馬子が軍略・外交・宗教の全てに明るいスーパー政治家になってしまいますし、蘇我王朝を目指す心理と行動にも矛盾が出て来ます。

個人的には、蘇我馬子が仏教に求めたのは呪術的なパワーと民間への求心力であって、17条憲法の元になる崇高な精神は持ち合わせていなかったと思っています。なので、仏教学者に近く外交を得意とした聖徳太子は実在の人物であり、日本の神仏習合は彼が起点だと考えるようになりました。

 

因みに、神仏習合の象徴とも言える修験道の開祖である神変大菩薩・役小角(じんぺんだいぼさつ・えんのおづぬ)は、西暦650年前後に飛鳥寺で孔雀明王法(くじゃくみょうおうほう)を学んだ事になっていますが、誰が教えたのかは分かっていません。

聖徳太子は西暦622年に病死しており、その師であった高句麗僧の慧慈(えじ)も西暦623年に亡くなっています。玄奘三蔵の直弟子である道昭(どうしょう)が帰国したのは西暦660年なので、普通に考えたら他の渡来僧か、遣隋使だった日本人僧侶か、その弟子が教えた事になると思います。

 

飛鳥・奈良時代の密教は「雑密(ぞうみつ)」と呼ばれていて、主に呪術によって何らかの利益を得る事を目的にしています。西暦800年頃に最澄と空海が伝えた密教は「純密(じゅんみつ)」と呼ばれており、ざっくり言うと儀式や呪術を用いて悟りの境地を得ようとする体系です。

役小角は大和葛城山・金剛山(やまとかつらぎさん・こんごうさん)で孔雀明王法を修行し、その験力を以て大峰山で蔵王権現を感得して雑密の大成者となりました。権現(ごんげん)とは仏が神の姿で現れたという意味で、本質的には神仏は同じ存在であり、現れ方が違うという考え方です。

面白いのは、聖徳太子と役小角は仏教に対する考え方が全然違うのに、神仏習合という同じ答えを出している事です。尤も、仏教の諸天はヒンドゥーの神々に原形があるので、突き詰めて考えれば同じ答えになるのかも知れませんが・・・。

 

 

日本人としてのアイデンティティ

聖徳太子は外交の玄関口だった大阪・難波と、推古天皇の皇居である豊浦宮の中間に位置する斑鳩(いかるが)の地に、斑鳩宮(いかるが の みや)と法隆寺(ほうりゅうじ)を建立しました。普段はそこで外交の情報収集と仏教経典の勉強に励み、用があれば馬に乗って豊浦宮に出向いたのでしょう。

その道すがら、聖徳太子は何を思い、何を考えたのか?

彼は「世間虚仮・唯仏是真(せけんこけ・ゆいぶつぜしん)」という厭世的な言葉を残しているくらいですから、人はどう生きるべきかという人生問題に悩み、死後の世界に思いを馳せるロマンチストだったのではないでしょうか。

 

神仏習合前の古神道は、自然崇拝や先祖崇拝を説く事はあっても、死後の世界や、人としての生き方を説いたりはしません。祭祀王たる天皇の役目は民の為に祈る事であり、時代によっては政治も行いますが、ローマ教皇のように人を宗教的な高みに導く役目を担ってはいません。

そういった神道に足らない所を仏教は補ってくれますし、隋や唐などの大陸覇権国家や韓三国に目を向けるなら、儒教が説く礼節を弁えておく必要もあったでしょう。そう考えると神道・仏教・儒教の混交と習合は必然であり、避けられない事だったと思います。

明治政府の狂気的な政策である神仏分離令にしても、欧米列強の脅威と、僧侶の強権と腐敗を考えれば、やむを得ない判断だったのかも知れません。その時代の事を、今の時代の価値観で裁く事には、殆ど意味が無いのです。

 

長い時間をかけて習合した神仏を強引に分離し、何かおかしくなったからと言って適当にくっつけた所で、決して上手くはいきません。我々がやるべきは、まず現状を知り、歴史から原形を学び、正すべき問題点を炙り出す事です。

我々は日本国民であり、先祖代々続いて来た叡智と伝統精神の担い手です。国と言う共同体の中で生きているにも関わらず、国民としての自覚が無く、担うものを持たない人物は、自分の都合で共同体を壊してしまいます。

壊すのは簡単ですが、壊れたものを治したり、新たに生み出すのは大変です。でも、壊れたまま放置すれば、後に続く者が泣きを見ます。

 

全ては現状を知る事から始まります。百聞は一見に如かずと言うように、現状を知るには自ら足を運び、己の目で確かめるのが一番です。個人的には、日本人としての精神性とアイデンティティを回復させ得るのは、神社仏閣巡り以外に無いと確信しています。

 

 

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海外向けに作成したサイトなので、ふり仮名がローマ字表記になっています。その所為で日本人には読み辛いかも知れませんが、写真がメインで文章は少なめにしてあるので、慣れれば問題にならないと思います。

また、宗派を問わず禅関連の記事に力を入れているので、白隠禅師が住職を務めた松陰寺や、その師である正受老人が住んでいた正受庵、知る人ぞ知る奇僧・風外慧薫が住んだ風外窟のように珍しい記事もありますので、どうぞお楽しみください。

 

2021年神社仏閣巡り

Posted by 清濁 思龍