多様性と責任感について

2021年哲学, 積極的隠遁

今週の動向

いきなりですが、まずは下記リンク先にある文春オンラインの記事を読んでみてください。

小6児童の悲痛な声「なんで加害者を擁護するの?」 不適切指導で2年半も不登校に | 文春オンライン (bunshun.jp)

h ttps://bunshun.jp/articles/-/44635

 

「娘の遺体は凍っていた」14歳少女がマイナス17℃の旭川で凍死 背景に上級生の凄惨イジメ《母親が涙の告白》 | 文春オンライン (bunshun.jp)

h ttps://bunshun.jp/articles/-/44765

 

たまたま似たような記事が被っただけかも知れませんが、上の記事は13日、下の記事は15日と、非常に短いスパンで学校におけるイジメの記事がアップされています。

どちらのケースもイジメと言うより犯罪という言葉の方が相応しいと思うのですが、記事を読む限りでは犯人とその家族には殺人の自覚すらないようですし、犯人が判っているにも関わらず全く裁きを受けていないように見えます。

相変わらず、学校では危険人物が野放しになっているようですね。尤も、会社も似たようなものですけど・・・。

 

読者のみなさまも御存知のように、我が国は加害者の更生に期待し、被害者へのケアを軽んじる傾向があります。そうなった理由は色々ありますが、個人的には国民全体が「多様性」と「責任感」に対して間違った認識を持つに至ったのが主な理由と考えています。

本来ならば、加害者は被害者に対して償いをしなければいけません。自らの言動に「責任」を取り、被害者の許しを請うにはそうするより他は無いですし、加害者が反省と贖罪の意志を示さないなら組織や国家が被害者に代わって制裁を加え、反省を促さなければなりません。

権力の暴走は恐いものですが、権力でしか解決できない問題があるのも確かです。ならば権力を悪戯に恐れるのではなく、上手く使う事を考えた方が良いのではないでしょうか。

 

残念ながら、世の中には動物と大して変わらない人間未満の存在が居ます。そいつらには欲望と自己愛しか無いので、極端に視野が狭く、自己中心的です。また、ストレスにも弱く、ちょっとした事ですぐに感情的になるので、全く対話が成立しません。

連中はあまりにも精神が未熟で弱過ぎる為に、己の言動への「責任」を負う事すら出来ません。その為、自己正当化の為に嘘を垂れ流し、責任を転嫁し、当たり前のように他人に迷惑をかけます。また、モラルや遵法意識が低く、保身しか考えられないので、より暴力的な者の下に就く傾向があります。

人間未満の存在には、反省と更生など期待出来ません。酷い話だとは思いますが、毒を以て毒を制するように、圧倒的な暴力か国家権力で無理矢理従わせるより他は無いし、そうしてやるのが結局は本人達の為にもなるのです。

 

ですから、会社の上司や学校の教師などの「人の上に立つ者」には、ならぬものはならぬと言える権限と、人を正しい方向に導く指導力が必要になる訳です。しかし、権力や権限はともかく、指導力は一朝一夕では身に付きません。それは数多くの闘争を経験しなければ、到底身に付かないものです。

闘争とは迷惑なものです。周囲の人達に「自分も巻き込まれるのではないか?」と不安にさせたり、実際にあらぬ迷惑をかける事もあるでしょう。しかし、それを経験しなければ問題解決能力は高まらないし、闘争の危機を未然に防げるようにもなりません。

「人の下に就く者」は、いずれ自分も「人の上に立つ者」になる事を視野にいれて、早い段階から闘争のイロハを学ばなければなりません。でなければ、空威張りするだけの無能か、人を見殺しにするだけの役立たずに成り下がります。

 

畢竟、人間未満の存在との闘争は、自らの指導力を高める為の試練であり、決して避けて通れないものです。しかし、日本社会において闘争は最悪の事態であり、何が何でも回避すべき許されざる事と認識されている為、闘争の経験を積める場所は限られます。

何故そうなってしまったのかと言うと、誰かをスケープゴート(生贄)に差し出して闘争を回避する方が楽だし、被害も少なくて済むからです。

今の日本では、一人の善人を助ける為に、五人の悪党を犠牲にする事は許されません。岩国トロッコ問題の出題者が糾弾されたように、トラブルから全力で目を逸らし、無かった事にするのが正解なのです。

 

これが我が国に蔓延る「事勿(ことなか)れ主義」の弊害です。そして、この現状を覆すのは不可能と判断したからこそ、私は会社員を辞めたのです。

 

 

反省と更生について

再犯防止の為にも犯罪者には反省をさせて、更生を促すべきだという理屈は分かるのですが、あまり現実的な考え方とは言えません。何故なら、反省とは、認知の歪みを正す事から始まって、阻害・停滞していた情緒の成熟を求めるという、かなり高度な精神活動だからです。

情緒的に成熟した大人でも難しい事を、情緒的に未熟な乱暴者に出来る訳がありません。でも、犯罪者の中にも本気で更生したがっている人は居るでしょうから、そういう人だけ助ければ良いと思います。

ただ、更生のチャンスは被害者や社会全体に対して「請う」ものであって、誰にも等しく無条件に「与えられる」ものではありません。人間社会に参入したいのであれば、この程度の勘違いくらいは自力で正せるようになってもらわないと困ります。

 

その勘違いと、視野の狭さを正すには、自分自身と向き合わなければなりません。そして自分と向き合えば、己の心の闇とも向き合わざるを得なくなります。心の闇の正体は、トラウマと、エゴと、自惚れであり、どれも怪物に例えられるほど厄介なシロモノです。

例え生まれ育った環境が悪くても、堕落したのは自分自身の「責任」です。その最低限の「責任」さえ引き受けられないような者が、心の闇と対峙する事など出来る訳がありません。

それを承知の上で更生の道を歩みたいと言うのであれば話は別ですが、果たして、そこまでの覚悟がある者が居るのかどうか・・・。

 

人間社会は様々な人達が共存する「多様性」があって然るべきですが、最低限のルールさえ守れない者は排除せざるを得ません。それが自浄能力というものです。自浄能力の無い社会は、社会未満のカオスに過ぎません。

情緒的に成熟した大人を草食動物、情緒的に未熟な乱暴者を肉食動物に例えるなら、「多様性」のある社会とは肉食動物と草食動物が共存する場所です。しかし、その場所では肉食動物は肉を喰えず、草を食(は)むしかありません。

人間であれ動物であれ、生まれついての性質を変える事など出来ませんし、そんな真似をする意味もありません。草食動物は草食動物のままで良いし、肉食動物は肉食動物のままで良い。あるがままの野生の姿を否定しても、良い事は一つもありません。

 

悲しいかな、我々が理想とする「多様性」とは、そもそもが無理な願いであり、永遠に成し得ぬ理想に過ぎないのです。

人間は、常に自分が正しいと考える生き物であり、自分以外を見下し、差別するように出来ています。その救い難い本能に抗って、より良い社会を築き上げようとするのは立派ですが、世の中には本能に抗う事を良しとしない者も大勢居ます。

個人的には、そういう人物の為に本能丸出しでも生きていける野生に近い環境を用意して、可能な限り住み分けをする事が必要だと考えています。尤も、あまり露骨に住み分けを進めると反発されるので、かなり上手くやらなければいけませんがね・・・。

 

 

被害者の救済

私自身、過去に何度も差別されたり、イジメられた経験があるので、被害者達の気持ちは分かるつもりです。イジメられた時に誰も助けてくれないと全てが敵に見えてきますし、そういう時に自力で立ち直ってしまうと、その後は人間不信になるのです。

私も無力な子供の頃は黙って我慢するしかありませんでしたが、力をつけた後は怒りと憎悪に我を忘れ、復讐する事によって自分を維持していました。あんな連中に負けたくない、自分の居場所は自分で確保出来るようになりたいという一心で、チンピラ化しかけた時期もありました。

そんな私を救ってくれたのが、無明庵の鈴木崩残先生です。禅書道リーディングによって私のパーソナリティを読み解いて、歩むべき道から外れかけている事を指摘してくださったのです。この指摘が無ければ私はあらぬ方向に進んでしまって、人生を台無しにしていた事でしょう。

 

私の場合は余力があったので、間違いを指摘していただくだけで十分でしたが、キャンプ仲間の茶柱さんのように全てを奪われてしまった人には、誰かが寄り添ってあげなければいけません。

昔は僧侶や神官が寄り添う役目を担っていたと思うのですが、今の神道や仏教にそれを期待するのは難しいと思います。ならば誰が寄り添ってくれるのかと言うと、精神科医か家族くらいしか居ない訳ですが、そのどちらもダメな場合はどうすれば良いのでしょうか?

酷い事をされた悔しさと、加害者への恨みを抱えつつ「人の道」を歩むしか無いのでしょうか? でも、それはそれで残酷に過ぎるのではないでしょうか? そもそも「人の道」の先にあるものとは、一体何なのでしょうか? 私が知る限り、誰もが歩むべき「人の道」など存在しないのですが・・・。

 

ストレスや心労が耐久力を上回った時に、人は心を病んでしまいます。自己の本心を裏切って、心の悲鳴を無視して「まだやれる」とか「やらなきゃいけない」と頑張る事でも、心を病んでしまいます。

また、理想と現実のギャップで苦しんだり、それまでの苦労や努力が報われなかったり、信じていた人に裏切られたり、人によっては失恋が切っ掛けで心を病んでしまう事もあるようです。

つまり、人間らしい繊細さを持つ人ほど心を病み易いという事なのですが、それは「人の道」を真摯に歩もうとしている人ほど、生き辛くなるという事です。

 

「人生は辛くて当たり前、だからお互いに支え合うのだ」とか「どんなに酷い目に遭っても決してめげずに前を向く、そこに人の尊さがある」などというキレイゴトが心に響く内は良いのですが、心の耐久力が限界に近づくにつれて、どのような言葉も心に響かなくなっていきます。

そのような時に、何の反省も無くゲラゲラ笑いながら調子こいて生きている加害者の姿を見てしまったら、被害者の心は壊れてしまうかも知れません。況してや、被害者が誰の助けも得られていなかった場合は、極限まで追い詰めてしまう事になるでしょう。

追い詰められた被害者が、復讐心に駆られて加害者にならないようにするには、被害者が納得するような正しい裁きが必要不可欠です。本当に加害者の更生と、その将来を案じるなら尚更です。

 

経験上、復讐が何も生み出さない事くらいは知っていますが、私の場合は復讐を果たす事によって人生を前に進める事が出来ました。

もし復讐を果たせなかったら、私は自分の無力さと残酷な人間社会に絶望した挙句、因果応報の理さえ信じられなくなっていたでしょう。

悪い事をしたら然るべき報いがあるという事は、人間社会における数少ない「救い」であるように思います。そして更生は、その「救い」の後に来るべきものだと思うのです。

 

 

ちょっとだけ気が休まるかも知れない呪術

初歩の悟りである「預流果(よるか)」に達すれば、物事をエゴのフィルターに通さず「あるがまま」に受け止める事が出来ます。あるがままに近づけば近づくほど、生きるのは楽になります。何故なら、それは苦楽が生じる前の世界だからです。

しかし、今現在イジメの被害に遭っていたり、何かにつけてスケープゴートにされてしまって悟りどころの話では無いと言う方には、ちょっとした呪術をお勧めします。

まあ、所詮は「おまじない」レベルの術なので大した効果は期待出来ませんが、何もしないよりはマシですし、相性次第ではそこそこの効果が出るかも知れません。

 

 

トラタカ冥想

まず部屋を暗くして、100均で売っているちっちゃいロウソク、ティーライト・キャンドルに火を着けます。そして、とにかくその炎を見つめてみましょう。姿勢は、坐禅を組もうが、横になろうが、どうでも良いです。そして体中の力みを取るかのように、ゆっくりと深呼吸をしてみてください。

 

太古の戦神・インドラ神のマントラを唱える

白い象に乗った茶褐色の肌の男性をイメージしながら、以下のマントラを好きな回数だけ唱えてください。唱える際は楽な姿勢で結構ですが、トラタカ冥想をしながら詠唱するのも良いかも知れません。

「オーム・インドラヤー・スヴァハー」

 

 

ガヤトリー・マントラ

ガヤトリー・マントラは、ヒンドゥー教における最高のマントラと言われています。動画を見ながら出来れば108回、無理ならなるべく多く唱えてみましょう。このマントラもトラタカ冥想をしながら詠唱すると良い事がありそうです。

「オーム・ブール・ブワッ・スヴァハー。

タット・サヴィ・トゥル・ヴァレーンニャム。

バルゴー・デーヴァッスャ・ディーマヒ。

ディヨー・ヨー・ナッ・プラチョーダヤート。」

 

 

更新情報

カテゴリ・各種メソッドの記事を更新しました。偽覚者・伊勢菊理に全財産を奪われた茶柱さんは、この金儲けメソッドを実践する事で障碍者年金と五年分の遡及請求に至る流れを掴み、窮地を脱する事が出来ました。

高藤聡一郎氏の「仙道帝財術入門」

 

2021年哲学, 積極的隠遁

Posted by 清濁 思龍