心の強さを求めて生きる

心の純化心の純化

心の強さとは何か?

他人からの干渉や暴力を跳ね返し、自己を貫き通すには、強い心を持たねばなりません。心の強さとは、即ち信念の強さであり、信念とは「正しい」と信じる事です。しかし、とにかく何かを信じれば心が強くなるのかと言えば、必ずしもそうとは言い切れません。

何故なら、我々の心は「正しくない」事や、根拠のない事を信じられるようには出来ていないからです。つまり、信念にはそれ相応の「正当性」が必要なのです。

逆を言うと、正当性を支える「根拠」さえあれば、何であれ信念に成り得るという事です。そして正当性を支える根拠は本人の精神性と比例する為、立派な人は立派な信念に殉じ、くだらない人はくだらない信念に殉じます。

 

最も立派な信念は、積み上げた人生経験と深い内省により「あるがままの自己」を知る事で生まれる信念です。最もくだらない信念は、身勝手な欲望と他人との比較により「優越感」を得る事で生まれる信念です。その中間にあるのは、教育と学習により「他人から植え付けられた」信念です。

強い信念は自信を生むので、信念と自信はほぼイコールと考えて良いでしょう。故に、自信がある人は心も強いという事になります。信念と自信の違いは、信念には根拠が必要ですが、自信には根拠が必要無いという所にあります。

基本的に人は誰でも、自信満々の状態で生まれてきます。しかし、他人との比較で打ち負かされる経験を積み重ねると、次第に自信を失っていきます。この時に失う自信には価値など無いので、新たに信念の根拠となる「何か」を探せば良いだけなのですが、心の弱い人にはそれが出来ません。

 

心の弱い人は、他人に打ち負かされると意気消沈するか、次はやられる前にやるとばかりに攻撃的になります。これは失敗や敗北の経験を受け止めて自己成長に繋げるという、人間としての真っ当な成長のプロセスを歩めないという事です。

真っ当な成長のプロセスを歩めなかった人は、次第に暴力に屈するようになっていきます。つまり、より暴力的な輩の威を借りて保身を図ったり、自分よりも弱い者を踏み躙るような情けない生き方をするようになるのです。

情けない生き方をしていると言う自覚を持つ事が出来るなら、別の生き方を模索する事も出来るのですが、大抵の人は「身の程を思い知った」とばかりに、信念を持つ事や、自己成長を諦めてしまいます。こうなってしまったら、人としては終わったも同然です。

 

 

自信を取り戻すには

自信を喪失する最も大きな理由は、他人との比較によって敗北感を味わう事です。直接の勝負で負けるのはもちろん、自分よりも能力や才能に恵まれた者と出会ったり、自分よりも肝っ玉が太いとか、弁が立つとか、仲間が多いなどの理由で勝手に敗北感を味わう事でも自信が失われます。

では、他人に勝てるように努力したり、勝負や比較を止めれば自信が回復していくのかと言うと、そうでもありません。どんなに努力しても勝てない相手は居るものですし、自分が比較するのを止めても周囲の人達が勝手に勝敗を決めてかかる事もあります。

他人との比較と勝負という「土俵」から降りるには、全く別の土俵に上がるしかありません。そしてその新たな「土俵」とは、自己を知り、自己と戦う場所に他ならないのです。

 

自己との戦いと言う「新たな土俵」に上がった人の関心は「今、自分に何が出来るのか?」という所に移るので、他人との比較や勝ち負けには関心を示せなくなります。そして自己を知り、自己に打ち克つ経験を積み重ねる事で「本物の自信」と「揺るぎない信念」を身に付けていきます。

その戦いに末に、人は「あるがままの自己」を知ります。これこそが「戦いに決着をつける」という事であり、その後は自由自在に自己実現を果たしていくだけです。

 

 

自己実現を果たすには

自分の中で戦いが終わったとしても、他の人はまだ戦いを終えていないので、くだらない理由で勝負を挑まれてしまう事があります。その時にムキになって真正面から立ち向かうと、既に終わった筈の「他人との戦い」が再び始まってしまいます。

自己実現に取り組んでいる人にとって、他人との戦いは不毛であり、迷惑です。故に、上手くあしらう術を身に付けるか、無駄に挑まれなくなるような工夫が必要になってきます。

最も賢い選択は、セミリタイアおよび隠遁生活に入る事です。海外でも20代や30代でリタイアする「FIRE(Financial Independence Retire Early)ムーブメント」が流行しており、ITを駆使して独立起業と早期退職を果たす人が続出しているそうです。

 

要するに、若い頃は社会勉強を兼ねてガッツリ稼ぎ、早期リタイア後は株式投資や資産運用に注力したり、その成功体験によって得られた経験や知識をブログの記事にして収益化する訳です。

このようなライフスタイルならば自己実現にオールインする事が出来るので、不毛な戦いに巻き込まれる可能性は殆ど無くなります。

いわゆる社会人達は、出世して成り上がる為の計略や、追い落とされない為の保身に相当な労力を割いています。しかし、実際に隠遁生活に入ってみると、それらは悉(ことごと)く無駄であり、徒労である事が分かってきます。何故なら、出世や保身は自己実現と結びつかないからです。

 

個人的な話になって恐縮ですが、管理人の父親は役人の世界で上り詰め、退職後に勲章まで貰った「ノンキャリアの星」でした。しかし、その人間性は最低の一言で、有能な部下を何人も使い潰したり、権力者には逆らわずハイハイと何でもやってきた事を、息子の私に自慢するようなロクデナシです。

己の持てる力を全て人間関係に注ぎ込み、息子でさえ出世のダシに使った結果、確かに奴は社会的には成功しました。でも、その成功により人間性は腐敗を極め、家族全員から嫌われてしまいました。退職後は他に生き甲斐も無く、酒の為だけに生きているような状態です。

奴と関りのある元・重役達と会った事もありますが、極一部の例外を除いて、どいつもこいつも似たり寄ったりでしたし、かつて私が働いていた会社のお偉いさんも、大して変わらない連中ばかりでした。

 

つまり、自己実現とは対局の生き方をしてきた連中が、今の日本社会を作り上げたという事です。しかし、そんな社会に属しながら、自己実現など出来るものなのでしょうか。勿論、出来る人は出来るかも知れませんが、私が見てきた限りでは、本当に優秀な人は皆、脱サラ・独立起業の方向に舵を切っていました。

役所や会社に隷属しながら、心正しく生きていこうとするのは、無理があるように思います。そのような生き方を望むのは、どこかしら心に歪みがあるか、単に臆病なだけだとも思います。

本当に自分がしたい事をしようと思ったら、組織は足枷にしかなりません。他の社員・職員にもそれぞれの考えがあり、したい事があるのですから、本当の意味で一丸となる事などありえません。これ即ち、自己実現は孤独とセットであるという事です。

 

 

真の強さ

世間一般で言う「心の強さ」など、ただの見栄・ハッタリや、麻痺・鈍磨に過ぎません。人の心の仕組みと、人が作った社会の成り立ちを知り、犀の角のように独り歩む覚悟を決めれば、恐れるものは何も無いのです。

自己実現を阻まんとする権力や暴力に対しては、社会の仕組みと法を理解し、上手く対処する術を身に付ければ良いだけです。その立ち回りを覚える為に社会で働くのであれば、その経験は後々、必ず役に立つでしょう。

畢竟、人の心を真に強くするのは「信念」と「自立心」です。この二つの要素があなたを鍛え、結果的に自信を付けさせてくれるのです。

 

しかし、いくら社会の仕組みと法を理解しても、突発的・衝動的に振るわれる身体的暴力や犯罪行為に対応する事は出来ません。悲しいかな、これに関しては日頃から逃げ足を鍛えておくか、格闘技を身に付けるくらいしか打てる手はありません。

気性の荒い人物とつるんで群れで行動すれば安心だと考える人も居ますが、面倒な人間関係や、トラブルに巻き込まれる事が増えてしまうので、自己実現どころではなくなってしまいます。

「誰にボコられようが、殺されようが、俺は曲がらない!」というタフな精神を持つ人は別ですが、自己実現や大切なものを守る為にフィジカル(身体的)な強さを求めるようになるのは、自然な成り行きのように思えます。社会的な成功者に筋トレの愛好家が多いのは、その所為かも知れません。

 

 

健全な精神は、健全な肉体に宿れかし

管理人は中高と柔道部に在籍しており、社会人になった後も自主的に道場に通った時期があります。その技で他人を傷つけた事こそ無いものの、密かに自分の強さに自信を持ち、有事の際にも易々とは負けないと思っている所があります。

隠者と言えども人里に住む身である以上、人間関係のトラブルに巻き込まれる事もあります。その際、腕っぷしに自信が無いと、やはり臆してしまう訳ですよ。私もそろそろ「爺ちゃん」と呼ばれてもおかしくない年になってきましたが、今でも体を鍛えているのは、その為です。

柔道やレスリングなどのグラップリング経験者は「掴み合い」を恐れませんし、空手やボクシングなどのストライキング経験者は「殴り合い」を恐れません。それは有事の際のアドバンテージ(優位性)に他なりません。

 

格闘技経験者が人格者であるとは思いませんが、人格者には何らかの武道を修めていただきたいとは思います。何故なら、人格者が理不尽な暴力に屈する様子など、見たくないからです。それと同じ理由で、自己実現を目指して生きる人達にも、武道を修めていただきたいのです。

仏教の開祖・釈迦世尊は武術の達人だったと言われていますし、禅の初祖・達磨大師は言わずと知れた嵩山少林寺の武術の祖です。

何だかんだで人間社会は暴力を中心に回っているので、弱いままでは己の意を通す事など出来ません。愚か者の暴力を制するのは、心正しき者の「武」しかありません。そして武術は、健全な肉体を養ってくれるものでもある訳です。

 

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Posted by 清濁 思龍