真言律宗・西大寺と、隠者の修行場

2021年神社仏閣巡り, レイキ(靈氣), 内観冥想(サイコダイビング)

今週の動向

南都七大寺の一つ、真言律宗(しんごんりっしゅう)の総本山・西大寺(さいだいじ)に行ってきました。真言律宗は高野山の僧侶である興正菩薩・叡尊(こうしょうぼさつ・えいそん)が興した鎌倉新仏教であり、元興寺額安寺が属する宗派として知られています。

叡尊は西暦1200年代の人物ですが、この頃の寺院や僧侶は権力との癒着が激しく腐敗しきっており、その再生には廃れかけていた戒律を復興させる必要があると考え、身分を問わず多くの人々に戒律を授けました。また、聖徳太子や文殊菩薩への信仰や、密教の光明真言を広めるなどしました。

西大寺の建立は東大寺とほぼ同時期ですが、平城京の遷都と共に衰微してしまい、それを叡尊が再興した形になります。鎌倉新仏教の総本山が、奈良時代の官寺である南都七大寺に数えられているのは、その為です。

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別の日に、紫陽花(あじさい)で有名な真言律宗・岩船寺(がんせんじ)に行ってきました。岩船寺は奈良公園の北東に位置する当尾(とうの)地域にあり、鎌倉時代は世俗の喧騒や腐敗した東大寺や興福寺を厭う真面目な僧侶達の修行の場でした。

鎌倉時代には子院39坊の規模を誇っていましたが、度重なる戦乱によって衰微してしまいます。鎌倉時代から江戸末期までは法相宗の大本山である興福寺の末寺でしたが、1881年に西大寺の末寺になりました。つまり、それ以前は法相宗の寺だったという事でしょうか。

今でも当尾には鎌倉時代の石仏や摩崖仏が数多く残っており、石仏の里と言われています。また、岩船寺の東には天乃石立神社や柳生の里がありますし、その周辺にも石仏や摩崖仏が数多くあります。

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自然や静寂を好み、人里の喧騒を厭う傾向は、求道者に必要な資質の一つです。その根底にあるのは人間が持つ欲望そのものや、エゴそのものへの嫌悪感です。己の内に唾棄すべきものがあり、どう頑張っても拭い去れないと絶望した時に、悟りの可能性が開かれます。

巷には「人間は素晴らしい」とか「誰でも生きているだけで価値がある」などと言う欺瞞が垂れ流されていますが、本質的にあらゆるものは絶対的に無意味・無価値です。その冷酷に過ぎる現実を受け入れた上で、自分に何が出来るのかを考えなければいけません。

他人を支配して権力を握ろうが、嘘や勘違いの上に何かを積み上げようが、所詮は自己満足でしかありません。我々に必要なのは「本当の意味で満ち足りる」という経験であって、自己満足などという妥協では無いのです。

 

本物の満足は、真理に触れる事でしか味わえません。故に、それを得る事が求道の本懐であり、なりふり構わず真理を求める者を求道者と言います。

求道者が厳しい修行に耐え抜いたり、途轍もない事を成し遂げたりするのは、人間的に優れているからでは無く、単になりふり構わず本物の「答え」を欲しているからです。求道者にとって、心底から納得の行く「答え」以外は、心底どうでも良い事なのです。

そこまで強く「答え」を求められるようになれるか否かが問題なのであって、頭の良し悪しなどは大した問題ではありません。いくら仏教経典を暗記したり、意味する所を学んだ所で、悟りという「答え」に近づける訳では無いのです。

 

そして「答え」を求める心の強さは、自らの心を観察する事によって養われます。自己観察によって己を知り、自分の中にも世俗の下衆共と同じものがあると気づいた時に、救いようの無い自己嫌悪に陥ります。

この自己嫌悪こそが、唯一、人間としての殻を破る原動力に成り得るものであり、心底から「もはや人のままでは居られない」と思うからこそ、人としての「壁」を超える事が出来るのです。

自分の醜さを棚に上げて、自分より上、もしくは自分より下の他人を観察するだけでは、ここまでの動機は得られません。そして十分な動機が無ければ、誰も求道だの修行だのに興味を示す事は無いでしょう。

 

自分が嫌いだとか、他人が嫌いならそれで良いですし、好きになれないものを無理して好きになる必要はありません。ただし、自分が何がどう嫌いなのか、逆に何が好きなのかをキチンと把握する必要はあります。

好きなものを本当に大事にしたり、嫌いなものを最後まで嫌い抜く極端さもまた、求道者の資質の一つです。この資質を「真理の探究」という一点に向ける事が出来れば、途轍もない突破力を生み出します。

こういった話は、なあなあで妥協しながら日々を生きている人には理解し難い事でしょう。だからこそ「壁」を越えられずに終わるのですが、本人がそれで良いというなら、他人がどうこう言う話ではありません。

 

自分の心に求道の志が芽生えたと思ったら、試しに求道の先人達が遺したものに触れてみましょう。それらは他人の求道心に訴えかけてくるので、恐らくは「共感」という形で貴方の心を奮い立たせ、志をより大きく育ててくれる筈です。

寺院や仏閣は求道者の修行の場であり、生活の場として設計されています。そのような場所に慣れ親しめば、多少なりとも精神的な影響を受けます。つまり、積極的に寺院や行場に参拝・拝観をすれば、自己成長や自己変革を促し易くなるのです。

例え求道の天才であっても、自分一人で道を切り拓き、悟りにまで達するのは困難を極めます。しかし、先人の意思と智慧を受け継げば、多少は道行きが楽になるものです。

 

全ての物事は本質的に無意味・無価値ではありますが、それは物事の価値を自分で決めたり、どのような価値を見出しても良いという事でもあります。空(くう)とは即ち自由であり、その事実をどう活かすかは、一人一人の手に委ねられているのです。

 

 

自宅=専修道場

私の新居は寺院では無いものの、各種行法を修める為の道場である事には違いありません。そしてこの新しい道場には、現在一名の同居者が存在します。平たく言うと、茶柱さんとルームシェアを始めて約一ヵ月が経とうとしている訳です。

転居に必要な手続きや、お互いのライフスタイルの摺り合わせなども一段落して、やっとそれぞれのペースで生活できるようになってきました。

私は早朝の5時~6時頃に起床して、坐禅をするのが日課です。その後は椅子に座ってブログの記事を書くのですが、長時間座ってPC作業をしていると体が鈍るので、適度に気功やレイキをしています。茶柱さんはまだ鬱病の療養中ですけど、少しづつ私と一緒に修行をする日が増えてきました。

 

基本的にレイキの修行は一人でも出来ますが、他人にレイキ・ヒーリングを施す方がより良い修行になります。何故なら、レイキは自らの意志で流すものではなく、多い所から少ない所に流れていくものだからです。

例えば、私自身にヒーリングを施しても殆どレイキが流れる感じはしませんが、茶柱さんにヒーリングを施すと、まるで吸い取られるかのように結構な勢いでレイキが流れていきます。

しかし、レイキは天(宇宙)から流れてくるのものなので、いくら吸われても全然困りません。むしろ吸われれば吸われるほど、レイキの流れが良くなって出力が上がっていくようです。自分の意志で「氣」を操る気功の世界とは、全くと言って良いくらい仕組みが違います。

 

まだまだレイキに関しては修行不足なので、記事書きの合間にシンボルを描いてマントラを唱え、茶柱さんに遠近のレイキ・ヒーリングを施したりしています。レイキには一人で行う発霊法(はつれい ほう)と言うトレーニングもありますが、それはあまりやっていません。

その代わり、寝起きの暁天坐禅(ぎょうてん ざぜん)で頭頂から吸気と共にレイキを吸い込んで丹田に送り、呼気によって丹田に送ったレイキを練り上げて「氣」に変換するという、気功だか丹田禅だか分からない事をしております。

夕飯の後は外に出て、茶柱さんと一緒に丹田操剣法を行ったり、実戦を想定した剣術の稽古をします。丹田を鍛えても使い方を知らなければ宝の持ち腐れですし、個人的には武術の対人稽古でなければ磨けない感覚があると考えているので、これも重要な修行と位置づけています。

 

こういったトレーニングや行法は、私にとっては更に上の悟りを目指して禅寺で修行をする為の備えであり、茶柱さんにとっては自信の無さと打たれ弱さを克服して、精神的・社会的な自立を果たす為のものです。

自信の無さと打たれ弱さを克服するには、その原因になっている心理的外傷(トラウマ)と向き合う為に内観冥想(サイコダイビング)をする必要があるのですけど、茶柱さんは鬱病の回復途中なので、まだそこまでさせられません。

とりあえず社会福祉法人と連携して、デイケアや作業所に通いながら社会復帰を目指すという形にしていますが、国の福祉制度は頼りにならないし、茶柱さんの家族はもっと頼りにならないので、当面は私が個人的に支えていくしかありません。

 

出会ったばかりの頃の茶柱さんは、悪い意味でスピ色の強い人でした。常に脳内お花畑の浮わついた考え方をしているのに、いつも何かに怯えているような表情もしていました。

メールと直接対話で伊勢菊理にかけられた呪いを解いたり、仲の悪い親との間に立って話をつけたり、クリニックや市役所で有利になるように立ち回ったりしているうちに、少しずつ仲良くなっていきました。

まさかルームシェアまでする事になるとは思いませんでしたが、振り返ってみれば、こうなるのは必然的な流れであったような気もします。

 

あまりお金の話はしたくないのですが、茶柱さんからはルームシェア料金として、支給されている障碍年金を全額いただいています。でも、三級の認定なので月額5万円にもならないし、勝ち取った五年分の遡及請求は後で必要になるので使わせる訳にはいきません。

生活保護は貯金が残っていると申請出来ないし、家財道具が多いと審査に通らないと聞いています。悪名高い扶養照会制度も無くなった訳ではありませんし、仮に申請したとしても、役所が受給を阻止する為に嫌がらせをしてくる可能性があります。

決して楽観視出来るような状況ではありませんが、今更思い悩んだところで何も変わりません。出来る事は全てやって、日々の生活を大事にして、各種行法を楽しみつつ、自立に向かって欲しいと思っています。

 

 

更新情報

騒音トラブルのまとめ記事をUPしました。キレイゴト抜きの実体験で書いたので、多少なりとも役立つ部分はあると自負しております。

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