雨天のキャンプと信心銘(しんじんめい)

2021年7月20日2021年転迷開悟・見道, 風飡水宿(キャンプ), 積極的隠遁

今週の動向

茶柱さんと一緒にデイキャンプをしました。管理人はタープ&ハンモックか、タープ&蚊帳で一夜を過ごせるようになりたいという野望を持っているので、今後もタープのみでテントを張らない日が増えていくと思います。もちろん、状況次第ではテントを張りますけどね。

この日も試しにタープに蚊帳を吊ってみたかったのですが、何度も強い雨が降ってきた所為で地面に敷いたオールウェザーブランケットに水たまりが出来てしまったので、諦めざるを得ませんでした。このあたりの工夫もしないといけないのですが、なかなか雨対策は難しいです。

天候が悪い上に、キャンプ中にやる事が多いと疲れてしまうので、今回は100均のミニ鉄板でソーセージを焼いてホットドッグを作り、メスティンで炊いた御飯にガパオの缶詰を直火で温めてかけただけの簡単な料理にしました。たまになら手抜き料理も良いものです。

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ひさしぶりに動画を作成しました。雨がタープに当たる音も、なかなかに良いものですね。普段は肉を焼く時は丸型飯盒の蓋や、小型の焼き網と鉄串のセットを使うのですが、今回は敢えて100均のミニ鉄板を使ってソーセージを焼きました。

ミニ鉄板はメスティンの中に収納できるので便利なような気もしますが、正直、メスティンの蓋でソーセージを焼く方が遥かに良かったです。ミニ鉄板の何がダメなのかというと、フライパンのような縁(ふち)が殆ど無いので、料理中に油や汁などが垂れてしまうからです。

100均キャンプギアの中には有用な物もありますが、殆どの物がチープで使い難いのが実情です。そんなものを使うより、完成度の高いキャンプギアを購入して、日常生活で使っていく方が良いと思います。

 

 

別の日に、バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)の著書「信心銘(しんじん めい)」を読む為に、国会図書館・関西館に行ってきました。関西館の向かい側には「アピタタウンけいはんな」があり、その中にはMEGAドン・キホーテとスポーツ用品のヒマラヤがあります。

MEGAドンキの二階には、ちょっと大きめのキャンプギア売り場があります。茶柱さんはここで小型焚火台のフレイムストーブL型と、レクタタープを購入し、ヒマラヤでユニフレーム製のタープ用ポールを購入しました。

買い物を終えてから国会図書館に行って、私は信心銘を読み、茶柱さんは「ケーキの切れない非行少年たち」の著者である宮口幸治氏の著書を読みました。でも、先ほど購入したキャンプギアの事で二人とも頭の中がいっぱいになっていて、あまり本の内容が頭に入ってきませんでした(汗)

 

茶柱さんはキャプテンスタッグ製のトレッカー・ソロテントを持っているので、それに合わせて鹿番長のトレッカー・レクタタープを購入しました。これは1~2人用の小型タープなので初心者でも張り易く、ポールの高ささえ間違わなければ十分に日差しと雨風を避ける事が出来ます。

 

 

タープ用ポールは二本で2000円の激安品です。少々ガタつくのが欠点ですが、ラチェット機能がついているので高さを180cmと120cmに変更する事が出来ます。また、中にワイヤーが入っていないので、スチール製のポールの割には軽量です。

 

 

フレイムストーブはField to Summit社の製品で、サイズの割には火力が強い事で知られています。チロチロと燃える焚火の炎を楽しんだり、トラタカ瞑想をするのには向きませんが、強風が吹き荒れる野外で料理をするならこれに決まりです。

 

 

欲を言えばキリがありませんけど、これで茶柱さんのソロキャンプ用ギアは一通り揃いました。そうなると直ちにキャンプに行って、購入したばかりのギアを使ってみたくなるものです。

そろそろ学生達も夏休みに入りますし、そうなれば何処のキャンプ場も激込みになるでしょう。週に2度もキャンプをするのは色んな意味でキツイけれど、夏休みが終わるまで我慢するのもそれはそれで辛いので、思い切ってその翌日にキャンプ場に足を運びました。

週に二度目のキャンプとなるこの日も天候に恵ませんでしたが、鹿番長のタープが我々を雨風からしっかりと守ってくれましたし、フレイムストーブと焚火缶で作ったチリコンカンとハンバーガーも、なかなかの美味でした。

https://ideadragon.tumblr.com/post/656918164649787392/%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%94%E3%81%8C%E5%A4%8F%E4%BC%91%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%85%A5%E3%82%8B%E5%89%8D%E3%81%AB%E7%AC%A0%E7%BD%AE%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97%E5%A0%B4%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F

 

 

信心銘(しんじんめい)

私が国会図書館で読んだのはバグワンOSHOが書いた「信心銘」という名の本ですが、その元ネタであり、禅宗の教本として愛誦されているのは三祖・鑑智僧璨(がんち そうさん)禅師が書いた「信心銘」です。ちょっと紛らわしいですね。

OSHOの信心銘の内容は、二元論の愚かさについて書かれた僧璨禅師の一句を引用し、OSHOがその何十倍もの賛を付け加えるというものでした。OSHOの言は確かにご尤もな内容なのですが、とにかく文章量が多い上に冗長なので、読んでいると段々苦痛になってきます。

なので、途中でOSHOの本を読むのを止めて、国会図書館のPCで澤木興道禅師の全集を読みました。こちらは非常に面白い内容だったので、残りは帰宅してから国会図書館デジタルで読もうとしたのですが、自宅のPCでは閲覧不可と表示されてしまいましたとさ。どっとはらい。

 

OSHOは愛だのワンネスだのといった美辞麗句で本音を包み隠していますが、実はかなりキツイ事を言っています。何故なら、OSHOは人のエゴやマインドの働き、即ち「分別心(ふんべつ しん)」を一切評価していないからです。

早い話、OSHOは遠回しに全人類を批判・痛罵しているのですが、スピ系のエゴやマインドの塊みたいな人ほどOSHOを評価し褒め称えるという何とも妙な話になっています。そういう人達は、自分はエゴやマインドの奴隷ではないとか、分別心に振り回されてはいないとでも思っているのでしょうか。

僧璨禅師も二元分別による選り好みや葛藤を心の病と断じていますが、その病を克服するには悟りを開いて、あるがままに世界を観照する事が出来るようにならないといけないので、やはり本質的にはOSHOと同じ無茶振りをしている事になります。

 

人間社会は二元分別による選り好みと葛藤で成り立っているので、我々に対して必然的に一貫性なるものを求めてきます。それ即ち、社会に適応する為には否応なしに選り好みをせざるを得ないという事であり、社会に適応すればするほど人間はワンネスやノーマインドから離れていきます。

人は生きる為に分別に狂わねばならず、分別心が生む狂気こそが人の業の正体であると言えます。である以上、悟りの修行とは分別心という狂気から解脱しようとする試みに他ならず、それを実現するには、まず分別心への執着を断ち切らなければいけません。

しかし、分別心への執着を断とうとしても、断ち切れるものではありません。何故なら分別心の働きは、我々にとって必要不可欠なものだからです。分別心の正体は人体が持つ基本的な認識能力であり、それは安全か危険か、食えるか食えないか、生きるか死ぬかを判断する為の能力なのです。

 

OSHOはノーマインドの修行に能力は要らないと言っていますが、同時に「しない修行」は厳しいとも言っています。「しない修行」とは何かと言うと、それは生死を判断する認識能力を働かせないとか、分別心が働く前の平常心(びょうじょうしん)のままで居ると言う事です。

無門関の第十九則に「平常是道(びょうじょうぜどう)」という公案がありますが、早い話、平常心とは人の心の本質的な在り方であり、仏心(ぶっしん)そのものです。そして仏心とは水鏡のようなもので、水面に思考や感情と言う名の波が立てば、映るものの姿が歪んでしまう訳です。

私如きが言うのも烏滸がましいですが、坐禅とは「しない修行」の究極であり、仏心とは何かを見極める為に練り上げられた行法です。坐禅中に姿勢を正し、心を鎮めるのは、仏心・無心とは何かを見極めるのに必要という合理的な理由からであって、その方がカッコイイからではありません。

 

「しない修行」の対となる「する修行」というものもありますが、これは所謂「苦行・難行」というもので、意図的に行者に度を越えた刺激(ストレス)を与える事で、まるでショック療法のように心の働きを止めにかかるというものです。

ただ、行法の仕組みが分かっても危険な事に変わりはないので、あまり苦行には挑もうとはしない方が良いと思います。尤も、私は過度の心理分析と思考によって仏心・無心とは何かを知るに至ったので、苦行を根底から否定するつもりはありませんが・・・。

因みに「する修行」と「しない修行」は表裏の関係にある為、古代中国の陰陽論から法則を学ぶ事が出来ます。陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず。つまり「する修行」を極めれば「しない修行」とは何かが分かるし、その逆もまた然りだと言う事です。

 

つまり、日常的な思考を止める為に非日常に没入したり、非日常の不便さを知る事で文明のありがたさを改めて認識する事も、陰陽論に則れば合理的な修行に変わると言う事です。極論すると、法に則ってさえいれば、どんな事でも修行になり得る訳です。

ただ、いきなり日常生活や仕事を修行化するのは難しいので、最初は文明の対極に位置する自然環境に親しむ所から始めると良いでしょう。

茶柱さんも最初は霊山登山やキャンプを楽しめてはいなかったし、ちょっとした失敗で自信喪失する事も多かったのですが、今では積極的に自然に親しみ、その経験を日常生活に活かせるようになってきました。

 

そうなった一番大きな理由は、たとえ失敗しても自然環境の中では、文句、罵倒、嘲笑の類は飛んでこないという安心感を得られたからです。例え大きな失敗をしても、すぐ側にはキャンプや登山の経験者である私が居るので、最悪の状況にはなりません。

そうして得られた安心感を土台にして、あとは自分なりに心地よいバランスを求めていけば良いのです。ここからの選り好みや葛藤は、先に進む為に必要なものであり、言わば成長に必要な養分みたいなものです。その養分は自分なりの流儀を生み、やがて自我の確立と成熟に繋がります。

一つの事しか知らないと比較対照が出来ないので、理解が深まる事もありません。もっと言うと、学ぼうとか理解しようとする必要さえ無く、ただ事実を徹底的かつ丁寧に味わえば良いのです。そうすれば気付きと学びが、向こうからやってきます。

 

なるべく両極端を知ろうとするのは大切ですが、両極端か片方に走ろうとするのは間違いです。文明だけ、もしくは自然だけを捨てようとすれば、その試みは必ず破綻します。それと同じ理由で、自己を知るには他人を知る必要があります。他人は自己の鏡なのです。

しかし、他人を知る為に今の人間社会という狂気の直中に入っていこうとするのは、あまり賢明な判断とは言えません。何故なら、法治社会は機械的に過ぎていて、全くと言って良いほど人の感情に寄り添ってはくれないからです。

己の心を殺して一枚の歯車に徹するか、己が欲望を暴力で正当化する。これが日本社会での生き方の両極端ですが、ハッキリ言ってどちらもロクなものでは無いですし、知るだけの価値があるとも思えません。

 

それよりは、厳しい日差しと、吹き荒れる強風と、容赦のない雨の中で、どうすればそれらの困難を克服出来るのか、そして次に克服すべき事とは何なのかと思いを凝らす方が、よほど多くの事を学べます。

生き残る為に必要な工夫をした後は、少しでも気分良く暮らす為の工夫をする事になります。気分良く暮らせるようになった後は、本当の満足を得る為の工夫をせずには居られなくなります。そして本当の満足は物理的な工夫ではなく、精神的な工夫をしないと得られません。

面白い事に、精神的な満足は物の少ない環境の方が得易いので、キャンプや登山では簡単に満ち足りた気分に浸る事が出来ます。文明の結晶である自宅の方が便利で過ごし易い筈なのに、何故か不便な野外生活の方が満足度は高いのです。

 

何故、そう感じるのかという事にも理由があるのですが、その理由は野外における風飡水宿(ふうさんすいしゅく)の行にて、ご自身で感じ取ってください。本当に大切な事は他人から教わろうとしてはいけないし、絶対にこれを知らなければならないという事もありません。

いくら人間同士で背比べをして勝敗や優劣を競っても、本当の満足は得られません。何故なら、人生問題の答えは「行く場所」ではなく「還る場所」にあるからです。そして「還る場所」は本来の自己以外には無いですし、本来の自己の正体は、自己ならぬ自己なのです。

 

 

更新情報

キャンプでDUG社の焚火缶を使っている人は少ないです。L/M/Sの三サイズあっても、どれも日本人の感覚だと大きく感じるのでソロキャンプには向かないし、日本製のクッカーと比べると全体的な作りも甘いです。一応は炊飯も可能ですが、専用に開発された飯盒には敵いません。

欠点を挙げたらキリがないですけど、私は焚火缶の武骨なルックスに惚れ込みました。キャンプ場のみならず日常の料理でも使っていますし、それは恐らく焚火缶が生産中止になるまで変わらないと思います。

クッカーや調理器具には焚火缶よりもっと良い物があるので、敢えてお勧めはしません。でも、私は焚火缶を紹介せずには居られないのです。

禅的ミニマリズム・料理編