初伝・多面的観察

2021年9月17日見道の勧め

見道の初歩にして奥義

見道(けんどう)とは、仏教における五道(資糧道・加行道・見道・修道・究竟道)の一つであり、真の悟りに至る為の道です。我々は徳と智慧を集めて修行を積み、真理を垣間見ることで見道の位に入ります。

仏教における修行とは、釈迦世尊が開発した止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)の冥想法に他ならず、止観冥想こそが仏教を仏教たらしめています。

しかし、現在に伝わる止観冥想は危険を減らす為に意図的に「刃引き」がされているので、行法としての切れ味が殆ど無い鈍(なまく)らな冥想法になっています。

 

釈迦在世の時代には「不浄観(アスバ・バーヴァナー)」という冥想法がありました。これは人の死体に虫が湧き、獣に喰われて骨になるまでを観想する過酷な冥想法です。

主に性欲の強い人に奨励された冥想法でしたが、これを実践した仏弟子が相次いで発狂したり、自殺をしてしまうので、次第に不浄観を行う者は居なくなりました。

そして、釈迦世尊が伝えた「ヴィパッサナー冥想」にも、薬に例えるなら「この成分が無いと毒にも薬にもならない」という重要かつ過激な部分があるのです。

 

 

冥想の切れ味を取り戻す

「大勢の人に受け入れられる形になっているなら、それで良いじゃないか」お思いの方もおられるとは思いますが、事はそう単純ではありません。何故なら、刃引きされて鈍(なまく)らになった冥想法には、人が持つ無明の闇を切り裂くだけの力は無いからです。

果たして形だけの冥想法を実践する事に、どれほどの意味と価値があるのでしょうか。それとも、冥想している気分さえ味わえるなら、それで良いのでしょうか。

冥想の指導をするのは良いけれど、そのせいで発狂する者や自殺者が続出しては困ります。「ならば危険な部分は落とすべきだ」と考えるのは自然な成り行きですが、残念ながらそんなものには後世に伝えるだけの価値はありません。

 

人生に苦悩して真実を渇望するようになった人は、キレイ事や優しい嘘などは求めていません。彼らが求めているのは刺さった毒矢を引き抜いて苦痛を和らげる方法であり、自分や他人を活かすも殺すも自由自在な「真理」のみです。

知は力であり、力は使いようです。真理は単純明快であり、気付いてみれば大した事ではありません。しかしそれは「コロンブスの卵」のように、自力では気付き難い事なのです。

そして、冥想におけるコロンブスの卵とは、実は「物事を多面的に観る」という、誰でも知っている事だったりするのです。

多面的観察の妙諦については、noteの有料記事で公開しているので、よろしければそちらを御覧ください。

 

 

行法としての切れ味を取り戻したヴィパッサナー冥想をそのまま行ずると、殆どの人が苦しみに耐えかねて発狂したり、自殺をしてしまいます。つまりエゴにとって多面的な観察とは、それほどまでに都合の悪いものなのです。

もし、古今東西の仏教者や僧侶たちが全員、真実の為に命を懸けるタイプの人間であったなら、サマタ・ヴィパッサナー冥想も今のような形にはなっていません。

しかし、世の中には真理の探求者ではない人も居ることですし、仏教を多くの人に伝えて後世に残すのも大事ですから、止観冥想が「刃引き」されるのは止むを得ないと考えるより仕方がありません。

 

 

観察の為の修行

悟りを求めて多面的観察を実践するなら、真理の厳光と心理的なストレスに耐え得る強靭な自己を育てなければなりません。

観察による悟りの道である見道(けんどう)においては、むしろそちらの方が重要な修行であると言えます。

断言しますが、誰でも確実に、しかも気楽に悟れる方法などありません。何故なら、悟りとは「エゴの死」でもあるからです。

 

見道に限らず、本当に悟りに続いている道であるならば、必ずエゴが追い詰められて断末魔の悲鳴を上げる瞬間があります。

もしその瞬間が訪れた時に、エゴを満たす事への未練と執着が残っていたなら、誰であっても悟りの道から退転する事を選んでしまいます。

観察によってエゴの正体を見極めれば、エゴには何の可能性もないと解るのですが、そうなるまではエゴは何よりも、誰よりも、あるいは本人自身よりも大切なもので在り続けます。

 

しかし、エゴの正体を見極めたなら、誰でも必ず人間嫌いかつ厭世的になりますし、それでも決してエゴを手放せない自分自身に嫌悪感を覚えるようにもなります。

つまり、悟りへの正道は、自己(自我)嫌悪の道でもあるのです。

そのエゴ嫌悪の道を最後まで支えられるのは、自分はどうなっても良いから真実を知りたい、その為なら地獄に堕ちても構わないという程の透徹した「求道心(ぐどうしん)」だけであって、他のものでは全くの役不足なのです。

 

観察の為の修行とは、自我嫌悪を徹底するだけでなく、命懸けの求道心を養うものでなければいけません。しかし、求道心が育つ過程は人によって違いますし、何が求道心の養分になるかも分かりません。だからこそ自立心を養い、自分の道を自分で切り拓かなければならないのです。

究極の悟りに達するには正師に就かなければなりませんが、今生で初歩の悟りに達するのが目的ならば、むしろ自由度の高い無師独悟の道の方が都合が良いと言えます。

しかし、全くの自力で観察の道を歩むのは危険極まりないので、noteの有料記事を購入した方のみ、メールでの相談を受け付けております。

 

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2021年9月17日見道の勧め

Posted by 清濁 思龍