初伝・多面的観察

2022年1月12日坐禅と見道(けんどう)

見道の初歩にして奥義

見道(けんどう)とは、仏教における五道(資糧道・加行道・見道・修道・究竟道)の一つであり、真の悟りに至る為の道です。我々は徳と智慧を集めて修行を積み、真理を垣間見ることで見道の位に入ります。

仏教における修行とは、釈迦世尊が開発した止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)の冥想法に他ならず、止観冥想こそが仏教を仏教たらしめています。

しかし、現在に伝わる止観冥想は危険を減らす為に意図的に「刃引き」がされているので、行法としての切れ味が殆ど無い鈍(なまく)らな冥想法になっています。

 

釈迦在世の時代には「不浄観(アスバ・バーヴァナー)」という冥想法がありました。これは人の死体に虫が湧き、獣に喰われて骨になるまでを観想する過酷な冥想法です。

主に性欲の強い人に奨励された冥想法でしたが、これを実践した仏弟子が相次いで発狂したり、自殺をしてしまうので、次第に不浄観を行う者は居なくなりました。

そして、釈迦世尊が伝えた「ヴィパッサナー冥想」にも、薬に例えるなら「この成分が無いと毒にも薬にもならない」という重要かつ過激な部分があるのです。

 

 

冥想の切れ味を取り戻す

「大勢の人に受け入れられる形になっているなら、それで良いじゃないか」お思いの方もおられるとは思いますが、事はそう単純ではありません。何故なら、刃引きされて鈍(なまく)らになった冥想法には、人が持つ無明の闇を切り裂くだけの力は無いからです。

果たして形だけの冥想法を実践する事に、どれほどの意味と価値があるのでしょうか。それとも、冥想している気分さえ味わえるなら、それで良いのでしょうか。

冥想の指導をするのは良いけれど、そのせいで発狂する者や自殺者が続出しては困ります。「ならば危険な部分は落とすべきだ」と考えるのは自然な成り行きですが、残念ながらそんなものには後世に伝えるだけの価値はありません。

 

人生に苦悩して真実を渇望するようになった人は、キレイ事や優しい嘘などは求めていません。彼らが求めているのは刺さった毒矢を引き抜いて苦痛を和らげる方法であり、自分や他人を活かすも殺すも自由自在な「真理」のみです。

知は力であり、力は使いようです。真理は単純明快であり、気付いてみれば大した事では無いのですが、それは「コロンブスの卵」のように自力で気付くのはけません。そしてヴィパッサナー冥想におけるコロンブスの卵は、「物事を多面的に観る」という誰でも知っている事だったりするのです。

 

ただし、行法としての切れ味を取り戻したヴィパッサナー冥想をそのまま行ずると、不浄観よろしく殆どの人が苦しみに耐えかねて発狂したり、自殺をしてしまいます。つまり人間にとって「多面的観察」とは、それほどまでに精神的苦痛を齎すものなのです。

もし、古今東西の仏教者や僧侶たちが全員、真実の為に命を懸けるタイプの人間であったなら、サマタ・ヴィパッサナーの止観冥想も今のような形にはなっていません。

しかし、世の中には真理の探求者ではない人の方が多いですし、仏教を多くの人に伝えて後世に残すのも大事ですから、探求者以外の人達も行ずる止観冥想が「刃引き」されるのは止むを得ないのです。

 

ならば、リスクのある多面的観察とその妙諦については、極一部の人達の間にのみ伝わる「秘教」として後世に残すより他はありません。管理人が命懸けで会得した「観察の妙諦」は、noteの有料記事で公開していますので、興味がある方はそちらを御覧ください。

 

 

観察の為の修行

悟りを求めて多面的観察を実践するなら、真理の厳光に耐え得る強靭な自己を育てなければなりません。観察による悟りの道である見道(けんどう)においては、むしろそちらの方が重要な修行であると言えます。

断言しますが、誰でも確実に、気楽に悟れる方法などありません。何故なら、悟りとは「エゴの死」に他ならず、真理にまで続く本物の「道」には、必ずエゴが追い詰められて断末魔の悲鳴を上げる瞬間があるからです。

もしその瞬間が来た時、まだエゴへの未練と執着が残っていたなら、誰であっても悟りの道から退転する事を選んでしまいます。エゴは諸悪の根源であり、いくらエゴを満たしても自己満足にすらならないのですが、人間にとってエゴは自分の人生よりも大切なものなのです。

 

しかし、エゴ特有の「救いようの無さ」を知ってしまえば、誰でも必ず人間嫌いの厭世家(ペシミスト)になります。そして、それでも決してエゴを手放せない自分自身にも、強烈な嫌悪感を覚えるようになります。

つまり、悟りへの正道は、自己(自我)嫌悪の道でもあるのです。

そのエゴ嫌悪の道を最後まで支えられるのは、自分はどうなっても良いから真実を知りたい、その為なら地獄に堕ちても構わないと心底から思える程の透徹した「求道心(ぐどうしん)」だけであり、他のものでは全くの役不足です。

 

観察の為の修行とは、自我嫌悪を徹底するだけでなく、命懸けの求道心を養うものでなければいけません。しかし、求道心が育つ過程は人によって違いますし、何が求道心の養分になるかも分かりません。だからこそ自立心を養い、自分の道を自分で切り拓かなければならないのです。

究極の悟りに達するには正師に就かなければなりませんが、今生で初歩の悟りに達するのが目的ならば、むしろ自由度の高い無師独悟の道の方が都合が良いと言えます。

しかし、全くの自力で観察の道を歩むのは危険極まりないので、noteの有料記事を購入した方のみ、見道や悟りについての相談を受け付けます。有料記事の値段は100円ですが、例え100円と言えども購入していただく以上はお客様ですから、誠心誠意の対応をさせていただきます。

 

2022年1月12日坐禅と見道(けんどう)

Posted by 清濁 思龍