坐禅にも実体は無い

2022年3月29日坐禅のススメ

坐禅に決まった形は無い

管理人の朝は早いです。AM3時~6時頃に起床して、顔を洗い、お茶を飲み、トイレで用を足してから単布団や座蒲に坐り、のんびりとストレッチを行ってから坐禅をします。坐禅と言っても、体が硬くて結跏趺坐を組めないので、ヨーガでいう勇猛坐(ゆうみょうざ)で坐ります。

また、腕が短くて重い所為か「法界定印」を組むと猫背になってしまうので、代わりにヨーガの「チン・ムドラー」を組んでいます。

無料素材サイトの「Photo AC」で画像を漁っていたら、私の座法に近い画像が出て来ました。画像との違いは、座蒲や座具に坐って腰を反らしている所と、腕をピンと伸ばして両膝を軽く押すようにしている所くらいです。

 

 

管理人はこんな坐り方しか出来ないので、とてもじゃないけど禅寺の坐禅会に参加する事は出来ません。でも、この坐り方でも「持続腹圧呼吸」で腹圧を抜かないようにすれば、吸って吐く一呼吸で丹田をキメる事が出来ます。

座法はどうあれ、丹田をキメれば雑念が停止します。ですから、こんなやり方でも一応は坐禅です。

因みに「氣」の感覚が分かる人なら、坐禅中に丹田から発生した「氣」の柱が頭頂まで届くのが分かります。徹底的に丹田力を強化すれば、クンダリニー・ヨーガよろしく頭頂をブチ抜く形での大悟を果たせるかも知れません。

 

 

出先での坐禅修行

外出時に電車を利用する際は、駅のホームや電車の座席で椅子禅(いすぜん)をすると良いでしょう。一旦、丹田のキメ方を覚えてしまえば、後はいつでも何処でも無心・無念・無想の状態を実現する事が出来ます。

でも、坐禅は丹田のキメ方を覚えるまでが大変ですし、その大変さが坐禅修行の敷居の高さに直結しているのも事実です。しかも禅宗には丹田のキメ方についての具体的な教えや、補助的な行法が存在しないので、肥田式強健術や岡田式静坐法などの体系から学ぶ必要があります。

それでも丹田のキメ方が分からない場合は、全く別のアプローチから始めてみると良いでしょう。

 

丹田呼吸をすると丹田に「氣」が発生して、とても良い気持ちになるのですが、その快楽に自己を明け渡し、自己を溶け込ませて「忘我(ぼうが)」の状態を目指すという方法があります。

これはヨーガや中国仙道に近い方法なのですが、ヨーガだと呼吸法や瞑想で快楽(スカ)を生じさせるまでが難しいし、仙道だと武息(ぶそく)と呼ばれる呼吸法で「氣」を発生させるが難しいという問題があります。

因みに、仙道家の高藤聡一郎先生は武息の代わりに気功によって「氣」を発生させるという考え方を広めた方ですが、ストレス塗れの現代人には仙道どころか気功を修行する事さえままならないのが現実です。ならばどうするか。

 

これは誰もが忘れていたり、気付かないままになっている事なのですが、実の所「ただ居るだけ」や「ただ呼吸をしているだけ」でも、微かな快楽が発生しています。試しに心を落ち着けて、その微かな気持ち良さを再発見し、その中にほっこりと安らいでみてください。

我々は苦痛に集中したり苦痛と一枚にはなれませんが、快楽に集中したり快楽と一枚になる事なら簡単に出来ます。その人間としての性質を利用して禅定(ジャーナ)に至ろうとする事なら、誰にでも出来るのではないでしょうか。

その際、坐禅のように法界定印(ほっかいじょういん)を結ぶ必要はありませんが、目をつぶると意識の変容が起きる可能性があるので、必ず目を開けるか、半眼の状態をキープしてください。半眼と喫印は、意識が漂流しないように繋ぎ止める碇(アンカー)の役割を果たします。

 

人間は強烈な快感と強烈な不満を知っている為、他の動植物とは違って存在する事の幸福感だけでは飽き足らなくなっています。しかし、欲求を常に満たし続けるのは不可能ですし、強い欲求と衝動のままに行動していたら、遅かれ早かれ破綻します。仏教が欲を捨てろと説くのは、その為です。

欲望を捨て、思考を捨て、快楽を捨て、最後は自己さえ捨て去る。これが仏教における四禅の道です。

 

 

キャンプや車中泊でも坐禅をする

私はキャンプや車中泊の旅をする人なので、旅先で坐禅をする方法についても考える必要があります。因みに、テントやタープの中で坐禅をする場合は単布団を使いますし、車中泊なら座蒲を使います。

因みに、座蒲は枕の代わりにはなりません。高速道路のSAで車中泊をした時に、試しに座蒲を枕にしてみましたが、トラックの音と振動がダイレクトに伝わってきて全然ダメでした。

昔の禅僧(雲水)は正師を求めたり、悟後の修行として全国を行脚したそうです。因みに、曹洞宗の雲水は座蒲を抱えて旅をしたそうですが、臨済宗の雲水が単布団を背負っていたという記録はありません。多分、手ごろな石や倒木を探して、その上で坐禅をしていたのでしょう。

 

我々禅者にとっては行住坐臥が坐禅であり、工夫の道です。そしてその工夫を楽しめれば、坐禅修行は一生ものの娯楽になります。繰り返しますが、禅に形はありません。形の無いものだからこそ、無限の可能性を秘めているのです。

2022年3月29日坐禅のススメ

Posted by 清濁 思龍