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悟りの体験談 その4

2024年4月1日悟りの体験談悟りの体験談, 悟りの体験

壁さんの場合

某日、ぼやぼやとネットを徘徊していたら、こちらのブログ(※当サイトの前身、思竜庵の事)を発見しました。そして最新の記事を読んで、これはもしかして(誰か、は分からないけど)「引っ張られたかな」と感じたので書き込ませていただきます。

ボクが悟りを体験したのは、3年前の冬で26歳のときでした。大学院生でしたが、諸事情で学校は休学中でした。時間は深夜だったかな。具体的な体験とすれば、何かを閃くときの「ピーン」というのが十倍にも二十倍にも強くなって電流となってしまった感じ。

その電流が雷のように脳天に降ってきて、そのまま背中側を通って腰の辺りまで駆け抜けて行きました。

当時は、仏教のことも他宗教のことも哲学のことも何も知りませんでしたが、さすがに悟りという言葉ぐらいは知っていて、その特別な体験にすぐ「あれ、これ世間では悟りと呼んでいるものじゃね」と思いました。

事実、その体験の瞬間「何かが分かった」気がしたのです。重大な、「何かの勘違い」に気づいた気がしたんです。でも何が分かったのか、分からない。分かった気がするんだけど、それを形(言葉)にしようとすると、どうやってもしっくりこない。

 

これがボクの悟りの体験でした。

ここ3年間は、その悟りを形(言葉)にする作業をひたすらやっておりました。世界各地の哲学や宗教などの文献や発言を参考に・・・その際、どうしてなのかは分かりませんが、仏教(特に原始仏教)をずっと後回しにしていました。

本当にここ最近です。原始仏教に手を付けて、預流果という言葉もようやく出会ったところです。

そんな事情からか、今現在でもボクは本当は預流果なのだろうか、と思ったりします。一応、その手の解説にある「預流果(や一来果)の人はこうなるよ」というのに当てはまっているようなので、そうなのだとは思っているのですが。

 

・・・まあ、実際のところどうなのかは、どうでもいいことでもあるでしょう。

さて、経緯を書き込んで欲しいとのことなので、更に長文失礼します。ボクには小学生の頃からの夢(欲求)がありました。それは「この世の中、何とかなんねーかな」というものでした。

当然、まだ小学生なので、その夢をちゃんと自覚できていたわけではないのですが、小学生なりに「平和で世界を征服できねーものか」と一生懸命に悪巧みをしていたわけです。

その後、多くの人々ときっと同じで「ボクはそんなことが出来るほど特別でも、天才でもない」という分かりやすい挫折で以って、すっかり夢は忘れさられることになるのですが・・・まあ、しぶとく心の奥底では諦めなかったようです(苦笑)

中高生の時も(傍目からどう見えていたかは分かりませんが)普通の学生生活を満喫しつつ、どこかで「何とかなんねーかな」を探していました。

大学生になって、少し難しい本が読めるようになってきました。特に経済と社会に関する勉強は、ボクが「これはボクの欲求だ」と思っていたものが、ボクではなかったことを教えてくれました。

そして生涯の友人になれそうな人間との出会いもありました。それに絡んで諸事情で、2年ほどの空白の時間(ニート生活)を手にする幸運が転がり込みました。

そこで、ボクは改めて「この世の中、何とかなんねーかな」に取り組んでみたわけです。自分で言うのも何ですが、結構真剣に(笑)結果はお察しの通りです。そしてほぼ同時期ですね、悟りの体験をしたのは。

まだ記事をほとんど読んでおりませんが、『清濁思龍の場合』の記事がとても響いてきたので、そこで頂けた温かいものを、ほんの少しですがお返しする気持ちで書き込ませていただきました。

清濁さんが、これまでもこの瞬間もこれからも平穏でありますように。ではでは。

 


 

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Posted by 清濁 思龍