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私説・路逢達道(ろほう たつどう)

古則公案・SS古則公案・SS

 

道端で禅を究めて悟りを開いた人と出会った場合、言葉や沈黙で相対してはならない。では、何をもって相対すべきか?

 

老僧「・・・とまあ、これが無門関・第36則、路逢達道という公案のあらすじだ。」

小僧「師匠、この公案は簡単過ぎます! しゃべっちゃダメ、黙っててもダメなら、ジェスチャーで応えればいいんです!」

 

老僧「そうくると思った。だが、それではこの公案は透れない。ブッブー。」

小僧「な、何でダメなんですか!?」

 

老僧「何かを『する』という形では、この公案は透れない。何故なら悟りとは『しない』事だからだ。」

小僧「しないこと・・・ですか。」

 

老僧「そうだ。言うのは簡単だが、人間にとってこれほど困難な事も無いぞ。」

小僧「そうですか? ボクは何もせずにボーッとするのが好きな方ですけど?」

 

老僧「それはボーッと『して』いるのであって、何も『していない』訳では無いな。」

小僧「師匠、それを言い始めたら、誰だっていつも何かしている事になります!」

 

老僧「その通り、人は誰しも無意識レベルで常に何かしているものなのだ。そして覚者はそれを止めろ、何もするなと言っている。何故なら、それこそが悟りへの道だからだ。」

小僧「な、何ですかその無茶振りは・・・。」

 

老僧「因みに、死とは『する』事だ。現在進行形で死んでいるという訳だな。はっはっは。」

小僧「いや、全然笑えませんよ!」

 

老僧「生きている、ただ居る、死んでいる。何をどうしたって、人間は何かをしてしまう。では、何もしないとはどういう事なのか? そもそも、そんな事が可能なのか?」

小僧「正直、ボクは無理だと思いました。何もしないで居る事は出来ません。不可能です!」

 

老僧「まあな。だが、一つづつ『すること』を減らしていくなら、出来るのではないか?」

小僧「例えば、どういう感じですか?」

 

老僧「それをわしに聞いちゃ、修行の工夫にならんだろ。だが、一つだけヒントをやろう。」

小僧「はい、お願いします!」

 

老僧「まず自分が無意識にしている事を自覚するようにしてみなさい。脳内の独り言や、脊髄反射で行われる無自覚な反応などを、なるべく取り漏らさないようにな。」

小僧「はい、やってみます! ・・・って、これは何処かで聞いた事がある話のような?」

 

老僧「そう、マインドフルネスだよ。なかなか鋭いじゃあないか。」

小僧「あっ、気づき(サティ)の話なんですね、これって!」

 

老僧「マインドフルネスは仏教のヴィパッサナー冥想が元になっていて、その仏教冥想が目指すのはただ一つ、悟りだ。」

小僧「へええ、公案にしては、妙に具体的な話ですねぇ・・・。」

 

老僧「いやいや、マインドフルネスやヴィパッサナー冥想を以って、この公案の解とする事は出来んぞ。飽くまでも、悟りはその延長線上にあるという話だ。」

小僧「確かに、道端で覚者さまと出会ったら、いきなり冥想をし始めるってのも変な話です!」

 

老僧「そんな怖い人と道端で出会ったら、わしは二秒で逃げる(笑)」

小僧「ですよねぇ~(笑)」

 

老僧「ビジネスマナー的な礼節を否定する気は毛頭無いが、悟りにおいては無心と無垢が最高の礼節だ。それが可能な限りの『しないこと』でもある。」

小僧「全く『何もしない』のは無理ですもんね。」

 

老僧「その通りだ。だが、自らの『すること』に意識的になり、気づきを重ねて無意識の反応を止める所まで行けば十分だ。それは『世界を止める』事であり、見性(けんしょう)と言っても過言ではない。」

小僧「世界を止める、ですか?」

 

老僧「自分の世界を形成しているのは、自己の認識だからな。自分の世界を止めた時に見えるのが、あるがままの世界であり、その世界を見る為に禅者は修行をしている訳だ。」

小僧「な、何か急に禅問答っぽくなってきましたね(汗)」

 

老僧「世界とは己が認識そのものであり、これまで積み重ねてきた学習と、人生経験の結果として在るものだ。世界は自己が作ったものであり、我々はひとりひとりが世界の創造主なのだ。」

小僧「ボクも世界の創造主なんですか?」

 

老僧「その通りだが、残念ながらお前が作った世界は、お前のエゴで汚れ腐った救いようの無い世界だ。」

小僧「ガーン!!」

 

老僧「とは言え、人間が作る世界は全てエゴで汚れ腐っているので、お前の世界だけが特別に醜悪と言う訳ではない。むしろ、かなりマシな部類に入ると思うぞ。」

小僧「そ、そうですか。でも、なんか嬉しくない・・・。」

 

老僧「見性とは性(さが)を見ると書く。見るべきは万物の空性(くうしょう)だ。それは己の世界を止める事であり、例え一瞬でも世界を止めた者は、不可逆的に悟りの道を歩む事になる。不退転の菩薩とは、そういう存在だ。」

小僧「不退転の菩薩・・・。」

 

老僧「己が意を離れよ。自惚れを捨てよ。慢心、思い上がりはエゴの肥やしだ。肥大して勢いづいたエゴは誰にも止められないし、そういう人間の礼節は慇懃無礼にしかならない。覚者は自他の『エゴ臭』を絶対に見逃さないし、騙されもせん。」

小僧「は、はい・・・。」

 

老僧「あるがままの世界は、平等で完璧な世界だ。その世界に参入しているか否かは、見る人が見れば分かる。だから、道端で覚者に遭ったら、あるがままの自己で在れば良い。取り繕った自己を見せようとすれば、覚者に対しては失礼になる。」

小僧「それが『しないこと』なんですね・・・。」

 

老僧「そう、言葉や沈黙で『どうにかしよう』と考える事自体がアウトなのだ。それはエゴに汚れ腐った思考の結果に過ぎないからな。」

小僧「なるほど・・・。」

 

老僧「真心は礼節を超えるんだよ。実際、私心の無い人だと、タメ口でも気にならんだろ?」

小僧「それはありますね! ボクも真心の人になりたいです!」

 

老僧「喝! 何者かに『なろう』とするな! お前はお前のままで十分に尊いのだ!」

小僧「ひゃああ、すみませーん! って、何でボクは今、怒られたの?!」

 

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