魂の十二因縁

道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と説きました。そして自己をならうとは、自我の働きを知る事です。大抵の人は、自我(欲望)に「使われている状態」なので、まず主導権を取り戻す必要があるのです。

自我と自己の違いが分からない人は、感情と欲望を客観視する事が出来ず、自分が世界の中心だと勘違いします。でも、自我を抑え込もうとすれば、自分の為ではなく、他人の為に生きるのが正しいと錯覚します。

あらゆる煩悩や邪見は自我が生み出すものと知り、物事を正しく見ようとすれば、善悪正邪は見方によってどうとでも変わるものだという事が分かってきます。これが禅における学道三則の大疑情(だいぎじょう)に繋がります。

 

大疑情は、社会常識やタブー(禁忌)に縛られない「自由な思考」を求めさせます。何故なら、束縛の不自由があれば、思考に偏りが出るからです。この真実のみを求める熱い心を大憤志(だいふんし)と言います。

しかし、大疑情と大憤志を得ただけでは、ただの狂人です。仏教の正しさを信じて、謙虚に学ぶ姿勢を持たなければ、誰もが狂気に飲み込まれていきます。これを大信根(だいしんこん)と言います。

結論から言うと、常識や禁忌の正体は、学習と教育です。殆どの人は幼い頃の「白紙の自分」に親が教え込み、人間社会に適応出来るよう「型に嵌められた経験」が、常識や禁忌の「核」になっています。

 

この「核」を除去するには、過去を振り返って「型に嵌められた経験」を克明に思い出す必要があります。その際、単に思い出すのではなく、まるでその瞬間に立ち会っているかのように「追体験」をするのがコツです。

首尾よく過去を思い出したら、次に「何故、そのような教育を施したのか?」という理由について考えてみましょう。教育の当時は理由が分からなくても、人として成長した今なら分かる事も多い筈です。

教育の理由について考えて、十分に納得がいくならそれで良し、逆に完全否定、完全論破する事になるかも知れませんが、それもまた良しです。大切なのは、心に刺さった棘のような記憶を引き抜き、無力化する事だからです。

 

辛い記憶を掘り起こせば、かさぶたを剥がすかのように、心が傷つきます。しかし、過去の記憶は現実には存在せず、そもそも自分のものでもありません。記憶を実在のものだとか、自分のものだと錯覚させているのが、自我の働きなのです。

自我も記憶も自分では無いなら、後に残るは意識だけです。では、意識とは何なのか? そもそも意識が意識を意識する事など出来るのか? 見るもの(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)の関係とは、どのようなものなのか?

疑念はいくらでも出て来ると思いますが、どの問いも必ず同じ答えに行き着きます。そして、その答えに辿り着いた時に、探究は終わるのです。

 

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