一念発起して坐禅を始めても、いくらもしないうちに「何の為に坐禅をするのか?」「こんな事に意味があるのか?」といった疑問が湧いてきます。修行を継続するのは色んな意味で辛いから、どうしても逃げの姿勢や、辞める言い訳が出て来るのです。
そんな情けない自分に喝を入れて、我慢と根性で修行を続ける人も居ます。でも、禅の視点からすると、そんな精神論こそ無意味なんですね。確かに見上げた克己心ですが、そういうのは「自己と向き合う」とは言いません。
基本、坐禅は無意味、無価値であり、その無意味、無価値な真似を無心に続けるからこそ、深層心理に沈む闇が表に出て来るのです。坐禅で大切なのは我慢と根性ではなく、常に無心で居ようとする事なのです。
じっと坐って何もせず、何も考えなければ、心に波も立ちません。波が消えれば、底が見えてくるのが道理です。怠惰な心が出て来るのは、心の底など見たくないし、知りたくも無いという「自己防衛の働き」なのです。
心の闇と対峙すれば、必ず心が傷つきます。何故なら、心の闇の正体は「自我(欲望)の醜さ」だからです。それはまさに狂気であり、地獄であり、絶望そのものである為、決して遊び半分で覗き見て良いものではありません。
その心の闇に無心で対抗するのが禅の道であり、それを可能にするのが日々の坐禅修行で鍛え抜いた定力(じょうりき)です。定力は正しい姿勢と呼吸法の産物であり、修行すれば誰でも必ず身に付けられるものです。
定力が弱ければ、心の闇に呑まれたり、打ち負かされたりします。優秀な師が居れば「獅子吼の説法」にて喝を入れてもらえますが、独学自力で禅の道を歩むなら、ひたすら定力を高める努力をしなければいけません。
しかし、心の闇は自我が作り出したものに過ぎないので、真理の厳光(不可思議光)には敵いません。闇は、必ず打ち破られるものなのです。自我が闇を生み出す仕組み(因縁)を見極めれば、勝利は目前です。
己が心の闇に打ち勝った人は、他人が抱える心の闇を見透かします。何故なら、人の心の仕組みは、皆同じだからです。既に打ち勝っている相手ですから、喝破するのはそれほど難しくはありません。
ただし、心の闇に呑まれている最中の人は、喝破された事を認めません。そういう人達を救うには「負けを認めないうちは負けてない」とか「謝ったら負け」みたいなしょーもない屁理屈を吹き飛ばすほどの、圧倒的な勢いが必要なのです。
坐禅の功徳は、心穏やかな菩薩に、不動明王や憤怒尊に変化(へんげ)する力を与えます。背中が曲がっていたら、獅子吼の説法で他人に喝を入れる事など出来ないし、オラついた悪党にも舐められます。
勝とうとせずに勝つ、戦わずに勝つ、知らず知らずのうちに勝っていたという「勝負の理想」を実現するのも、坐禅の功徳です。坐禅修行は、ただの人間を獅子に変え、獅子はその咆哮で人を変えるのです。
でも、獅子は獅子になろうとしていた訳では無く、無心に坐禅をしていたら、知らず知らずのうちに獅子になっていたのです。獅子と凡夫の違いは「何の為に坐禅をするのか?」「こんな事に意味があるのか?」といちいち問わなくなった事くらいです。
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