坐禅と定力(じょうりき)

坐禅を始めても、いくらもしないうちに「何の為に坐禅をするのか?」「こんな事に意味があるのか?」と言うような疑問が湧いてきます。坐禅を好きになるまでは、いくらでもやめる為の言い訳が出て来るのが困りもの。

言い訳をする自分に喝を入れて、我慢と根性で坐禅を続ける人も居ます。でも、禅の視点からすると、そんな精神論は無意味です。克己心そのものは悪くないのですが、そういうのは己自究明とは言いません。

基本、坐禅は無意味、無価値であり、無意味、無価値な事を続けているからこそ、己が心の底が見えてくるのです。坐禅で大切なのは我慢と根性ではなく、常に「無心」で居る事、即ち心が生じる前の状態を維持する事なのです。

 

最古の仏典・スッタニパータでは「識別作用(心)から悩みや苦しみが起こる、識別作用のない人には悩み苦しみがない」と説かれています。識別作用の無い人とは、悟りを開いた覚者の事であり、覚者とは心が生じる前の「無心」を識る者と言えます。

じっと坐って何もせず、何も考えなければ、心に波が立ちません。波さえ立たなければ、自然に心の奥底が見えてきます。そして心の奥底には自我(欲望)という怪物が潜んでいて、遅かれ早かれその怪物と向き合う事になります。

自我について知れば知るほど己自身に失望し、やがて「何で自分はこんなに嫌な奴なのか」と自己嫌悪に陥ります。実の所、そうなるのを避ける為に、私達は怠ける事で自分を守っているのです。

 

自己嫌悪に呑まれないようにするには、日々の坐禅修行で定力(じょうりき)を高める必要があります。定力は正しい姿勢と正しい呼吸法の産物であり、キチンと坐禅修行すれば誰でも必ず身に付けられるものです。

定力が弱ければ、自我に負けて欲望のまま破滅的な生き方をするようになったり、自己嫌悪で苦しむ事になります。優秀な導師に就けば、必要な時に喝を入れてもらえますが、独学で禅の道を歩むなら定力だけが頼りです。

舎利子ことシャーリプトラは「智慧と禅定を完成させれば、解脱は自然に起きる」と説きましたが、定力で心の発生を抑えるだけでは自我に打ち克つ事は出来ないし、本当の意味で楽になる事もありません。

 

仏教において、物事を歪みなく見る力と、心の発生を抑える力は車の両輪であり、どちらが欠けても修行は前に進みません。無心に近づくほど智慧は深まり、深めた智慧は更に禅定を深めます。

最終的に自我に本性無し(無自性)と見極めれば、己自究明の旅は終わります。本性が無ければ還るべき姿も無く、全ては移ろいゆく(諸行無常)しかない。これこそが真理(諸法無我・一切皆空)であり、その真理を会得する為に、私達は坐るのです。

 

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