Google Translater

座禅と禅病

坐禅のススメ坐禅のススメ

禅病の正体

極稀にではありますが、坐禅や瞑想の最中に涙が止まらなくなったり、笑いっぱなしになる人が居ます。また、白隠禅師のように酷い「のぼせ」に苦しんだり、OSHOラジニーシのようにマトモにものを考えられなくなる人も居ます。こういった症状が出る事を禅病と言います。

気功や太極拳の世界にも偏差という言葉があり、似たような症状に悩まされる人が居ます。禅病や偏差は、非合理的で自分勝手な修行をしていると発症するので、良い指導者に就いたり、参考にする本や動画の注意をキチンと守っていれば、それほど気にする必要はありません。

ただ、答えの出ない問題に苦悩していたり、深刻な生き辛さを味わっている人は、禅病や偏差が起き易いので、キチンとしたケアをしなければいけません。

 

禅病や偏差の原因は、過度の集中です。それによって体内の「氣」の循環が悪くなり、様々な症状が出てしまうのです。例えば、苦悩は胸部の「氣」に大きな穴を開けて、頭部に熱を発生させてしまうのですが、この場合は下腹部の丹田に意識を集中させると症状が軽減します。

また、長時間の坐禅で足の血の巡りが悪くなり、頭部に熱が集中してしまう事もあります。この場合は経行(きんひん)と呼ばれる歩行禅を行って、下半身の気血の流れを整える必要があります。経行が性に合わないなら、気功や太極拳、またはラジオ体操でもOKです。

坐禅瞑想の最中に意味も無く笑ったり、涙が止まらなくなる場合は、心理的な問題を解決する事を優先しましょう。メンタルクリニックでカウンセリングを受けたり、内観によって自己と向き合い、精神的な抑圧を取り除けば、次第に症状が治まっていきます。

 

 

禅病ではない症例

丹田錬磨や気功によって生命エネルギーが増大すると、好転反応瞑眩(めんげん)と呼ばれる反応が出る事があります。好転反応の出方は千差万別なので、とても説明しきれませんが、私の場合は下アゴが左右に引っ張られるような痛みが出ました。

他にも古傷が痛んだり、どういう訳か怪我をする前の所が痛む事もあるようです。こういった謎の症状が出た時は、様子を見ながら修行を続けていきましょう。増大した生命エネルギーによって痛む場所が癒されれば、自然に症状が収まっていきます。

ヨーガで言うクンダリーニ症候群も、禅病や偏差とは違います。これは人が悟る前の前兆みたいなもので、基本的に回避不能ですが、修行によって生命エネルギーが一定のレベルに達していて、内観によって精神的な抑圧を取り除いていれば、遅かれ早かれ悟りという形で治ります。

 

むしろ本当に気をつけなければならないのは、いわゆる神秘体験をした時です。人間とは弱いもので、坐禅瞑想の最中に不可思議な光を見たり、地球と一体化したり、神仏が現れたりすると、自分が特別な何かになったと勘違いしてしまうのです。これを魔境と言います。

禅病や偏差とは違って、魔境は本当に厄介です。本人は素晴らしい体験をしているので、他人が何を言っても耳を貸さなくなりますし、下手をすると新興宗教の教祖みたいになって、他人を惑わしたりします。

私も天狗に成り下がった人や、その被害に遭った人を何人か知っています。惑わす方は正しいことをしているつもりになっているし、騙された方も自分が惑わされているという自覚が無いので、本当に救いようがありません。

 

もし何か不思議な体験をしたら、まずその体験をキチンと検証する必要があります。悟ったと思ったなら悟りとは何かを詳しく知る必要がありますし、楽になったのなら何故楽になったのかを知る必要がある訳です。

人は誰しも、何かしら根拠があると「これはこうだ」と決めつけたがるものです。そして決めつけは、何となく分かった気になって安心したい時や、素晴らしい体験に執着している事を認めたくない時、体験を手放すのが怖い時にするものです。

また、これまで散々辛い目に遭ってきた人が神秘体験をすると、ついにこれまでの苦労が報われたとか、ついに救われたと勘違いする事があります。この手の人に「それは違うよ」と言ってしまうと、ますます体験への執着を深めてしまうので注意が必要です。

 

厳しい言い方をすると、魔境は精神的な問題が形をなしたもので、日頃の精神修養を怠った結果と考える事も出来ます。慧照禅師・臨済義玄は「何が見えても相手にするな、全て切り捨てろ」と説きましたが、個人的にはキチンと向き合う方が良いと思っています。

 

広告