心とは何か?

過去と向き合い、辛い記憶を掘り起こせば、大抵の人は心が傷つきます。心は成長するものだとか、強くなるものだと言われていますが、その為に何をすれば良いのでしょうか?

心の成長を望むなら、成長前の心と、成長後の心、傷ついた心と、傷つく前の心を知る必要があります。自らの心の状態を正確に把握しなければ、心を理想的な状態に成長させる事など出来ません。

仏教では正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の実践(八正道)によって心を成長させる事が出来ると説きます。しかし、仏教は「釈迦世尊の教えは正しいと信じろ」と繰り返し言うだけで、何が本当に正しいのかを教えてはくれません。

 

人間は「正しい事が分からない」と、不安と、焦燥感に悩まされます。それはとても苦しい事なので、誰もが藁をも掴む気持ちで救いを求め始めます。その際、誰かに教えを請うタイプの人と、自力で道を切り拓くタイプの人に分かれます。

教えを請うタイプの人は、師となる人に依存しがちですし、自力で道を切り拓くタイプの人は、独り善がりになりがちです。でも、本当は「自力で道を切り拓く為に、誰かに教えを請う」必要があるのです。

人は独りでは成長出来ませんし、自我を確立する前の未熟な心には、理不尽な運命を受け入れて学びに転化するような逞しさが無いので、自分の人生を自分で背負う事さえ難しいのです。

 

未熟さは弱さであり、心の弱い人が辛い過去と向き合うと、途端に自己憐憫に耽り始めます。そして「こんなにも不幸で可哀想な自分は、誰かが助けなければいけない」という歪んだ思考を持つようになっていきます。

過去と向き合うのは、自己憐憫に耽って気持ち良くなる為ではなく、飽くまでも問題解決の為です。つまり、心の弱さは「問題と向き合えず、逃げてしまう」という形で表れるという事です。

逆に、心が強い人は、絶対に問題から逃げません。問題解決に至らなかったり、反対勢力に負ける事はあっても、戦わずして逃げたり、暴力や卑怯な手を使ってでも勝とうとはしないのです。

 

何故なら、心が強い人は、誇り高い人でもあるからです。心の強さと誇りは比例するもので、私利私欲しか考えない人より、崇高な理念と誇りを持つ人の方が、心が強いのです。

崇高な理念と誇りを持っていなければ、真理の探究をする必要が無いですし、探究心が無ければ、人が悟る事もありません。これは「心根の卑しい人が悟る可能はゼロだ」という事でもあります。

そして、崇高な理念と、誇りの根拠になるのは「正しさ」です。これが八正道と心の成長のロジックであり、不安を押しのけて、真理や、本当に正しい事を探究する心の強い人こそが「悟りに近い人」だという理由です。

 

傷ついた心と、傷つく前の心については、坐禅修行をすれば自(おの)ずと知るに至ります。ただ、あまりに深い心の傷は、脳や心が思い出す事を拒否するので、掘り起こすのが大変です。

封印された記憶の扉をこじ開けるには、自分の心に全エネルギーを集中させる必要があるのですが、坐禅の最中なら容易にエネルギーを集中させる事が出来るので、とても内観(ないかん)が捗ります。

心の傷は、絡まった毛玉をほぐすかのように、少しずつ理解していくものですが、傷つく前の無垢な心は、ある時、瞬時に悟り得るものです。何故なら、心は実体が無く、その時、その時に発生する「現象」だからです。

 

心という実体が無い「現象」が傷つくという、この不思議なロジックを解き明かした人だけが、心の自由を手に入れます。その時、八正道の「正」とは何を意味するのかも解き明かされ、善悪正邪といった「概念」からも自由になるのです。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました