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建仁寺(けんにんじ)

2024年4月23日禅寺拝観禅寺拝観

 

建仁寺は明菴栄西(みんなん ようさい)禅師が開山した、臨済宗・建仁寺派の大本山であり、国内最初の禅寺です。

 

 

栄西禅師は宋(そう)に二度渡り、天台山で臨済宗・黄龍派(おうりょうは)の禅を学びました。その際、日本に茶を持ち帰った事から、茶祖(ちゃそ)とも呼ばれています。

 

 

栄西禅師は、岡山県・吉備津神社(きびつ じんじゃ)の神官を務めた賀陽家の子孫でした。その為、建仁寺の境内には明星殿・楽明神(みょうじょうでん・らくみょうじん)という吉備津神社の末社があります。

 

 

創建当初の建仁寺は三宗兼学(天台・真言・禅)の道場として発展しましたが、栄西禅師の没後、火災に見舞われて衰微します。その後、京都・東福寺(とうふくじ)を開山した聖一国師・円爾(しょういち こくし・えんに)が第10代住持を務めて、境内の復興に尽力しました。

宋からの渡来僧であり、鎌倉・建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師が第11代住持を務めてから、建長寺は臨済宗・楊岐派(ようぎは)の純粋禅道場となり、今に至ります。

臨済宗の雲水は、修行の一環として野外で坐禅(野坐)をする所為か、禅寺の庭園には坐禅石(ざぜんせき)と呼ばれる石が置かれます。建仁寺には、大書院と小書院の中間点にある潮音庭(ちょうおんてい)に坐禅石があります。

 

 

法堂(はっとう)には、御本尊の釈迦如来坐像が安置されています。

 

 

法堂の天井には、巨大な双龍図(そうりゅう ず)が描かれています。龍は仏教の守護者であり、水を司る存在です。禅宗寺院では建物を火災から守ってもらう為に、法堂の天井に雲龍図を書く事があります。作者は画家の小泉淳作氏です。

 

 

境内の南西に位置する禅居庵・摩利支天堂(ぜんきょ あん・まりしてん どう)は、鎌倉時代に元(げん)から渡来し、建長寺(けんちょうじ)、円覚寺(えんかくじ)、建仁寺(けんにんじ)、南禅寺(なんぜんじ)の住職を歴任した高僧、大鑑禅師・清拙正澄(だいかん ぜんじ・せいせつ せいちょう)の開山です。

禅居庵の御本尊は聖観音菩薩(しょうかんのん ぼさつ)ですが、清拙禅師が自作した摩利支天(まりし てん)の像も祀られています。境内には、摩利支天の乗り物である猪の像があります。

 

 

栄西禅師の時代は比叡山・延暦寺(北嶺)や、奈良・興福寺(南都)の力が強かった為、禅宗は弾圧の対象になりました。特に栄西禅師が所属していた延暦寺の圧力は凄まじく、朝廷に掛け合って禅宗禁止令を出させるほどでした。

同じ時代に生きた独覚禅者・大日房能忍(だいにちぼう のうにん)もまた、元は延暦寺に所属する僧侶でした。禅は法脈を重視する為、能忍は「無師独悟の偽禅者」と誹謗中傷されましたが、宋の臨済宗・大慧派の法嗣である拙庵徳光(せつあん とくこう)禅師に見性を認められています。

栄西禅師も最初は能忍を認めませんでしたが、のちに協力して京都で禅宗を興そうとします。しかし南都・北嶺の訴えによって禅宗禁止令が出され、能忍は奈良県の妙楽寺(現・談山神社)に逃げて再起を計ったものの、甥の平景清に暗殺されてしまいました。

※死因は諸説あり

 

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2024年4月23日禅寺拝観禅寺拝観

Posted by 清濁 思龍