むかしむかし、趙州従諗(じょうしゅう じゅうねん)禅師がとある庵を訪れて「有りや、有りや」と尋ねると、そこの庵主は握り拳を突き上げました。すると趙州禅師は「水が浅過ぎて、舟を停められない」と言い残して立ち去りました。
趙州禅師が別の庵を訪ねて、同じように「有りや、有りや」と尋ねると、そこの庵主も握り拳を突き上げたのですが、趙州禅師は「生殺与奪、全て意のままだ」と言って頭を垂れたそうです。
握り拳を突き上げるという同じ答え方をしたのに、趙州禅師は何故、一方の庵主を否定し、もう一方の庵主は認めたのでしょうか?
老僧「・・・とまあ、これが無門関・第十一則の州勘庵主(しゅうかん あんじゅ)という公案のあらすじだ。」
小僧「いかにも禅問答という感じですね!」
老僧「そうだな。だが、この公案は本当に説明し難くて困るんだよ・・・。」
小僧「あれっ、師匠が困ってる(笑)」
老僧「『有りや?』は『居るか?』で、拳を突き上げるのは当時の禅僧の所作だ。だが、庵主によっては悟りを認めたり、お前じゃダメだと言ったりしている。」
小僧「なんなんですかね。」
老僧「何となくだが、第三則・倶胝竪指(ぐてい じゅし)に通じる部分もあるな。」
小僧「それって和尚さんと小僧さんが人差し指を立てても、説得力が全然違うって話ですよね?」
老僧「第三則は背景が見えるんだが、第十一則は全然見えてこない。だから困るんだよ。」
小僧「えっと、それは師匠もまだ透ってないって事ですか?」
老僧「いや、飽くまでも説明に困るという話だ。何故なら、どうしても感覚的な話になってしまうからな。」
小僧「そうなんですね。」
老僧「所作には、その人の全てが現れる。わしも歩き方を見れば、その人の精神状態や、到達した境地が分かったりもする。」
小僧「それってメンタリズムみたいなものですか?」
老僧「うむ、それに近いものかも知れん。」
小僧「何だか、師匠の答え方にキレがないような・・・。」
老僧「まあ、言語化や説明が難しいだけで、わしの答えは『クンバㇵカ』で決まっているんだけどな。」
小僧「いきなり全然知らない言葉が出てきたァ!?」
老僧「クンバㇵカはサンスクリット語で、『聖なる体勢、満たされた状態』を意味する言葉だ。この言葉は、インド北東部のヨーガ行者・カリアッパ師に就いてヨーガを学んだ中村天風(なかむらてんぷう)が日本に持ち帰った。」
小僧「どうして天風さんの話になるんですか?」
老僧「天風はカンチェンジュンガ山のゴーグ村で、冷たい雪解け水の川に下半身を浸して『制感の行』を積んだのだが、カリアッパ師はチラ見するだけでクンバㇵカを会得しているか否かを見抜いたそうだ。」
小僧「おおー、聖者っぽいエピソードですね!」
老僧「多分、趙州禅師もカリアッパ師のように、一目で悟りの境地を見抜く目を持っていたのだろう。」
小僧「なるほど。だから師匠は、この公案にクンバㇵカと答えるんですね!」
老僧「無門関の編者である無門慧開(むもん えかい)禅師も、趙州禅師やカリアッパ師のような目を持っていたのだろう。つまり、この公案に参じるという事は、無門禅師から『お前の目は、本当に悟りの真贋を見抜けているのか?』と問い質されるのと同じなのだ。」
小僧「そう考えると、怖い公案ですねぇ・・・。」
老僧「まあ、公案に特定の答えは無いから、好きに解釈して構わないんだけどな。」
小僧「あの、師匠もボクの修行レベルみたいなのを把握しているんですか?」
老僧「当然だ。でなければ指導など出来んよ。」
小僧「そういう目って、どうすれば養えるんですか?」
老僧「今の自分と、今後の変化をしっかり観察し、正確に把握するよう努めるのだ。その時に得た情報が、他人との比較で生きてくる。」
小僧「へええ、もっと霊感チックな答えが返ってくると思っていました!」
老僧「霊感ではなく、職人技に近いな。最先端の科学が魔法と見分けがつかないように、磨き抜かれたテクニックは神通力に見える事がある。」
小僧「そのあたりの感覚は、確かに説明が難しそうです!」
老僧「テレパシーがあれば法の伝達も早いと思うんだが、無いものねだりしても始まらん。」
小僧「ですね! ボクは真面目に修行します!」
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