
むかしむかし、ある僧が「光明寂照遍河沙」(光明は静かに、この世界を照らしている)という有名な句を詠みました。
しかし、雲門和尚はその句を詠み終わらないうちに「それは張拙秀才の句だろう」と言いました。
僧が素直に「そうです」と答えた所、雲門和尚は「言葉を弄ぶな」と言いました。
老僧「・・・とまあ、これが無門関・第三十九則、雲門話墮(うんもん わだ)という公案のあらすじだ。」
小僧「えっと・・・これって普通の会話ですよね?」
老僧「確かに普通の会話に思えるが、最後の『言葉を弄ぶな』が話の肝だ。」
小僧「どういう意味なんですか、これ。」
老僧「早い話、『自分の言葉で語れ』ってことだよ。」
小僧「自分の言葉、ですか。」
老僧「悟りは自らの内から出る言葉で示すしかない。他人の言葉を用いた瞬間、悟りは死ぬ。」
小僧「でも、みんなお釈迦様や、祖師の言葉を引用してますよね?」
老僧「悟ってない僧侶や、仏教者はそうするしかないってだけだ。」
小僧「講義とかしてるお坊さんの立場がないですねぇ・・・。」
老僧「仏教教義を学ぶのは良い事だが、悟りそのものは学べない。」
小僧「教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)ですか。」
老僧「達磨四句とか、禅宗四句と言われている、有名な句だな。」
小僧「結局、四の五の言わずに、ただ坐るしかないってことですか。」
老僧「いくら悟り系のセミナーや、サットサンに参加しても、悟りは分からん。」
小僧「厳しいなぁ・・・。」
老僧「仕方あるまい。見た事のないものをいくら説明したって、見た事にはならんのだから。」
小僧「冷暖自知。・・・頭では分かってるんですけどね。」
老僧「その為に坐禅をする。だが、坐禅で得るものは無い。」
小僧「坐禅は引き算……でしたよね。」
老僧「そうだ。仏教教義も蓄積させる為のものではなく、捨てる為の知識に過ぎん。」
小僧「ごみの捨て方とか、断捨離のアイディアみたいですねえ。」
老僧「そうだな。雲門和尚も張拙秀才の句と知りながら、その句を引用した僧侶を諫めている訳だしな。」
小僧「自分の言葉で語れ、ですか。」
老僧「そういうことだ。」
小僧「……僕は今、師匠に言葉を殺されました。」
老僧「悪くは無いが、理屈っぽいなぁ。」
小僧「……これ、最後は何も言えなくなりますね。」
老僧「まあ、その為の公案だしな。」
小僧「でも、沈黙が答えではないんですよね。」
老僧「禅者は言葉では表現出来ないものを、伝えねばならん。」
小僧「因みに、師匠なら雲門師匠にどう返しますか?」
老僧「わしなら明寂照遍河沙の後に『光明は無く、世界も無い』と付け足すかな。」
小僧「それって、なんか般若心経みたいですね。」
老僧「こら、言葉を弄ぶな。」
小僧「……あっ。」