これは遙か昔の事、とある僧達の対話である。
僧A「道とは何ですか?」
僧B「平常の心が道だ。」
僧A「どう向かうべきですか?」
僧B「向おうと努めれば、道から離れる。」
僧A「努力なくして、平常心が道であると分かるのですか?」
僧B「道は知識や理屈では無いし、是非で考えるようなものでもない。」
僧A「・・・?」
僧B「道を頭で理解しようとするのが間違いなのだ。」
僧A「考えるな、感じろと?」
僧B「感じるものでも無いな。」
僧A「はぃ?!」
僧B「考えるな、常に平常の心で在れ。」
僧A「では、何をすれば良いのでしょうか?」
僧B「むしろ何もするな。」
僧A「何も・・・?」
僧B「するなと言っているのに、またしておる。」
僧A「いや、今は特に何も・・・。」
僧B「しておらんと?理解しようとしておるではないか。」
僧A「理解するのを止めたら、何も分かりませんよ。」
僧B「逆だな、分かろうとするから分からんのだ。」
僧A「訳が分かりません!」
僧B「する事ではなく、しない事に注意を払え。それが平常の心に至る道だ。」
僧A「しない事とは?」
僧B「車に例えるなら、ギアの入っていないニュートラルの位置に戻すようなものだ。」
僧A「今はギアが入っていると?」
僧B「入っておるな。まず、それをどうにかしろ。」
僧A「それは我を忘れろと言う事ですか?」
僧B「意識するだけなら構わん。が、それ以上の事はするな。」
僧A「いまここ・・・。」
僧B「それもまたギアを入れる行為だ。」
僧A「・・・。」
僧B「無念無想を為しておるな。」
僧A「バカニナレ!」
僧B「なろうとせんでも、既に。」
僧A「疲れてきました。」
僧B「疲れて何も出来なくなるまでやるのも手だ。」
僧A「もっと話を簡潔に纏めてください。」
僧B「間違いの数だけ言葉は増える」
僧A「ヒントをプリーズ。」
僧B「何かをくれてやる気など、さらさら無い。」
僧A「これはイジメでは?」
僧B「ひねくれた事を考えるな。真理は単純明快だ。」
僧A「とても簡単とは思えません!」
僧B「それは既知の物事に当て嵌めようとしているからだ。」
僧A「しない事とは、未知の体験と言う事ですか?」
僧B「そう、だから体験するしかない。」
僧A「無我を体験しろと?」
僧B「そうとも言う。」
僧A「忘我と無我の違いは?」
僧B「忘我とは己が身を忘れる事で、無我とは我が無い様子を表す言葉だな。」
僧A「どちらの体験が先なのでしょうか?」
僧B「普通は忘我が先だが、逆もある。」
僧A「忘我は必要な体験ですか?」
僧B「数少ない貴重な手がかりだ。」
僧A「平常の心とは、中道の心ですか?」
僧B「だったらそう説明している。ごっちゃにするな。」
僧A「とりあえず、己が身のしている事に目を向けてみます。」
僧B「それでも良い、やってみろ。」
僧A「・・・無意識に色々としているものですね。」
僧B「それは大切な気づきだ。」
僧A「・・・反射的に物事を理解しようとする自分に気付きました。」
僧B「それが人の習性だ、どうにかしてみろ。」
僧A「ただボーッとするのとは違いますよね?」
僧B「ギアはともかく、エンジンは死ぬまで切れん。」
僧A「平常心で、あるがままに見る・・・。私見を交えず観照する・・・。」
僧B「あと一歩だ。」
この後、ふとした事が切っ掛けとなって、僧Aは悟りを開いた。