
これは釈迦世尊が在世の頃の話です。成道後の世尊は、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)と呼ばれる聖地に壇を作り、そこで大勢の弟子たちに説法をするようになりました。
ある日の事です。いつものように世尊は壇に上がり、ありがたい説法をされるのかと思いきや、不意に弟子が供えた金波羅華(こんぱらげ・金色の蓮の花)を手に取って、少しばかり拈(ひね)ってみたり、高く掲げたりしたそうです。
釈迦世尊の行動には何か理由がありそうでしたが、弟子達にはその意味が分かりません。しかし、迦葉尊者(かしょうそんじゃ・マハーカッサパ)だけがその意味を理解して微笑んだそうです。この事により、迦葉尊者は仏教の後継者となったそうな・・・。
老僧「・・・とまあ、これが無門関・第六則の世尊拈花(せぞん ねんげ)という公案のあらすじだ。」
小僧「せぞんねんげ・・・ですか? あまり聞いた事の無い公案ですけど、有名なんですか?」
老僧「ぬぅ、そんな反応が返ってくるとは。・・・ひょっとして、拈華微笑(ねんげみしょう)と言った方が分かり易かったか?」
小僧「あっ、それならボクも知ってます! 仏様の美しい微笑みの事ですよね!」
老僧「んー、微妙に違うな。言葉の意味としては、笑みを以って心を伝えたとか、以心伝心(いしんでんしん)とか、直指人心(じきしにんしん)とか、そんな感じだな。」
小僧「あれ? 僕が知っている事と違います!」
老僧「まあ、言葉はいつの間にか独り歩きしているものだからな。よくある事だ。」
小僧「はい! 僕なりに言葉の意味を訂正しておきます!」
老僧「そうだな、そうしておくといい。因みに、釈迦世尊が拈(ひね)ったとされる金波羅華の花だが、これは憂曇華(うどんげ)だという説もある。」
小僧「御殿手(うどんで)ですか? 確か範馬勇次郎が愚地独歩に使った、琉球王国に伝わる秘伝の武術ですよね!」
老僧「それは逆にわしの方が全く分からん。憂曇華とは、ウドゥンバラとも言うインド原産のクワ科の植物の事だぞ?」
小僧「あれ? 何だか今日は会話が噛み合いませんね?」
老僧「そういう日もあるさ。あと、仏教における憂曇華は伝説の華でな。何と、3000年に一度だけ花が咲くと言われている。」
小僧「そんなに長期間花が咲かないのであれば、種の存続は難しいと思います!」
老僧「確かにそうだが、飽くまでも伝説だ。」
小僧「そういう伝説があるんですね、分かりました!」
老僧「伝説というなら、釈迦世尊が花を拈り、迦葉尊者だけが意味を理解したという話自体が伝説なのではないかと考える人達も居る。」
小僧「お釈迦様が生まれてすぐに天上天下唯我独尊と叫んだのも伝説ですよね?」
老僧「そうだな、生物学的にそんな赤子が居る訳ないからな。釈迦世尊の偉大さを称える為に、仏弟子の誰かが話を盛ったと考えるべきだろう。」
小僧「確か、そういうのは『起きた事』と言うんですよね?」
老僧「お、良く知っているな。その通りだ。」
小僧「わーい、師匠に褒めてもらえました! やっぱりボクはやれば出来る子なんです! エッヘン!」
老僧「拈華微笑の寓話は大梵天王問仏決疑経という経典に記されているんだが、この経典は学術的には偽経(ぎきょう)とされている。」
小僧「え!? 偽物の経典なんですか?! 偽物の経典なら、教えも偽物ですよね!? 何でそんなものが残っているんですか!!」
老僧「偽経と言っても、釈迦世尊直筆の経典など一つも無いから、現存する仏教経典は全て偽経という扱いになる。それは法華経や般若心経でさえも同じだ。」
小僧「何故、お釈迦様は経典を残さなかったのでしょう?」
老僧「悟りは言葉や文字で表現できないし、そもそも釈迦族は文字を持たない民族だったとも言われている。だから必要な事は歌にして記憶していたらしい。」
小僧「あ! 仏教でお経を読む習慣は、そこから来ているんですね!」
老僧「うむ。実際に上座部仏教では、今でも『パーリ』と呼ばれる古い言語で経典を暗唱しているよ。」
小僧「凄いです! カッコイイです! 古き良き伝統です!」
老僧「学術的には偽経であっても、真理が説かれているなら尊い経典だ。そして拈華微笑の話は、禅とは何かを伝えるのに最高のモチーフでもある。」
小僧「そんなに凄い話なんですね!」
老僧「ああ、本当に凄いぞ。わし個人としては、現存する公案の中で最も尊く、最も難解だと思っているくらいだ。」
小僧「え、師匠がそこまで評価している公案だなんて・・・。何かちょっと畏れ多くなってきました。」
老僧「そりゃそうだよ。何せ、開祖である釈迦世尊から次の代に、究極の真理が伝達された時の話だからな。公案としての難易度が低い訳が無い。」
小僧「あ、そ、そうですよね・・・。」
老僧「公案に特定の答えは無い。だから答える側は、現在の境地を素直に表現すれば良い。その表現が法(ダンマ)に則っていれば何を言ってもOKだし、則っていなければ何を言ってもダメだ。」
小僧「公案は、法(ダンマ)が分かっているかどうかのテストなんですね・・・。」
老僧「そう、その通りだ。例えば、人によっては『釈迦世尊と迦葉尊者は、あるがままに在る花を愛でている』と言うだろうし、問う側としては本当に『あるがまま』を悟っているかを確かめなければならない。そのやり取りの中にこそ、禅問答の本質がある。」
小僧「単にトンチを利かせれば良いって訳じゃあないんですね・・・。」
老僧「尤もらしい事を言っていても、追求すれば必ずボロが出る。悟りは理屈じゃないからな。況してやこの公案では、仏法の後継者として、言語によらず悟りの究極を示さねばならん。」
小僧「うぅ・・・本当に難しそうです。」
老僧「禅は不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏と説く。何故なら、光明は光明としか言いようが無いからだ。だが、光明を光明と言ってしまえば、光明を言語に堕とす事になる。言語化された光明など、もはや光明ではない。」
小僧「え・・・あ、あれ? 何だか急に師匠らしくない事を言い始めましたね?」
老僧「悟りとは、かつて人だった存在が、光明に回帰する事だ。光明に回帰した人は、もはや人とは呼べない。釈迦世尊と迦葉尊者は光明そのものであり、光明が花を拈り、光明が微笑んだとしか言いようが無い。そして、光明を知る術は無く、光明を知る者も居ない。光明が光明として在るだけだ。」
小僧「あうあう・・・師匠が、ボクの知ってる師匠じゃ・・・ない・・・!」
老僧「そうだ、良く分かったな。なかなか鋭いじゃあないか(にっこり)」
小僧「う、うわあああああぁーーーーー!! あ、アンタ誰だああああ!!!!」
老僧「・・・ふう、まさかそこまで怖がるとは思わなかった。普段のわしとそれほど違わないと思うんだがなぁ。」
小僧「あわわわ・・・ど、何処か知らない所に連れて行かれてしまいそうで、こ、怖かったぁ~・・・!」
老僧「まさかお前が光明を怖がるとは。脅かすつもりはなかったんだよ、すまんな。」
小僧「ボクの大好きな師匠が、ボクの目の前で師匠じゃなくなったんですよ! 怖いに決まっているじゃあないですか! ってか、何なんですか今のは!」
老僧「一時的に、人をやめただけだ。」
小僧「・・・それって、やめられるものなんですか?」
老僧「割と普通に切り替えられるな。むしろ人である今の方が不自然なくらいだ。まあ、自分でもどうやって切り替えているのかは分からんのだが。」
小僧「そ、そうなんですね・・・。」
老僧「誤解は承知で敢えて言うが、悟りの究極とは『光明として在る』という事であり『人でなし』になる事なのだよ。しかし、人が光明に『成る』訳ではないので、そこは注意が必要だ。」
小僧「ひとでなし・・・ですか。」
老僧「そうだ。本来、人など居ないからな。それが光明の本質であり、救いなのだ。・・・とまあ、悟りの究極について話そうにも、悟っている方が一方的に悟りを表現する事しか出来ず、まず対話にはならんのだよ。それだけ分かれば儲けものだとでも思ってくれ。」
小僧「き、今日は最後まで話が噛み合いそうにありません・・・ひぃ~~~・・・。」

コメント
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