むかしむかし、ある高名な和尚さんが、とある禅僧にこう問いかけました。「 奚仲(けいちゅう)は車を発明し、百台も造った。だが、最後は車輪と車軸を取り外した。彼はそれにより、何を明らかにしたかったのか?」
老僧「・・・とまあ、これが無門関・第八則の奚仲造車(けいちゅう ぞうしゃ)という公案のあらすじだ。」
小僧「師匠、奚仲って人の名前なんですか?」
老僧「そうだ。約4000年ほど前に中国大陸で興った、夏(か)という王朝の時代の人物らしい。」
小僧「中国4000年の歴史ですね!」
老僧「本当かどうかは知らないが、車を造った奚仲には、船を造った番禺(ばんぐう)という父が居て、奚仲の息子である吉光は馬を飼い馴らして馬車を作ったとされている。」
小僧「エジソンみたいな発明家が三代ですか! 凄いです!」
老僧「奚仲が作った車は全てのパーツが正確に作られていたので、とても使い易いと評判だったらしい。」
小僧「そんな昔の時代に正確なパーツを作れるなんて、凄すぎます!」
老僧「奚仲は自作の車をパーツ毎にバラした事があるらしく、それを宋代の禅僧・月庵(げったん)が公案にしたという話だ。」
小僧「奚仲さんがパーツ毎にバラしたのは、車をメンテナンスする為だと思います!」
老僧「確かにそうかも知れんが、公案として考える場合は答えにはならない。ブッブー。」
小僧「ブッブーって・・・。」
老僧「この公案は知的理解が容易なので、比較的簡単な部類に入る。しかし、核心の部分である『奚仲は何を明らかにしたかったのか』という所にスポットを当てると、急に難易度が上がる。」
小僧「奚仲さんは、きっと『造形はディティールの部分に神が宿る』と伝えたかったんだと思います!」
老僧「確かに細かい部分まで作り込んでいたらしいからな。だが違う、ブッブー。」
小僧「うぅ・・・師匠のブッブーは、何だか癪に障ります!!」
老僧「お前は、車とは何だと思う? 車輪か? 車軸か? それとも他の部分か?」
小僧「定義の話ですか? ボクとしては車輪と車軸が合わさったものを車と呼ぶべきだと思います!」
老僧「では、車輪と車軸が組み合わされる前の車輪と車軸は、車輪と車軸とは呼べないよな。」
小僧「はい! 組み合わせたものを外した場合も車輪と車軸とは呼べなくなります。・・・あ、あれ? でも、その物体の事は、正確にはどう呼称するべきなのでしょう??」
老僧「バラバラで組み合わされていないものも、普通に車輪と車軸と呼称するよな。車輪と車軸が組み合わされる前には、車など存在しないのに。」
小僧「あれ? ひょっとして車など存在しないのに、車があると言う前提で話が成り立ってませんか?」
老僧「そうだな。そしてその論理だと、車輪と車軸を組み合わせても、実際には車輪と車軸があるだけで、車など存在しないという事になる。」
小僧「あ、あれ? 車があるのに車が無い?」
老僧「更に車輪と車軸をバラすと、輪と軸を構成していた木組みがあるだけで、車輪と車軸も存在しないという事になるし、木組みをバラすと木組みも存在しなくなる。そして木組みを構成する木材をバラすと木材は存在しなくなり、最終的には分子や原子の話になる。そして分子や原子を構成するのは光と波だ。」
小僧「で、でも、車や車輪は確かに存在します。目に見えますし、触る事も出来ます!」
老僧「目に見えて触る事が出来ても、車という実体は無い。車と言う存在は、お前の脳内にある概念に過ぎないのだ。もっと言うと、視覚や触覚も神経伝達の信号に過ぎない。仮に、我々地球人とは全く異なる感覚器官をもつ宇宙人が車を見たり触ったりしたら、全く異なる物体を認識するだろう。」
小僧「物事には実体が無く、空であるとは、そういう事なのでしょうか?」
老僧「正解とは言い難いが、一応はそういう認識で良いだろう。もし、あらゆるものに実体が無いという事を体感し、完全に腑に落とす事が出来たなら、お前はその瞬間に悟りを開く。まだ悟っていないという事は、知的理解の段階に居るという事の証明でもある。」
小僧「う~ん、知的理解って、何だか微妙ですねぇ?」
老僧「まあ、結局は頭の中で、既知の何かと比較して想像しているだけだからな。誰だって知らないものは分からんさ。」
小僧「だから仏教では、無我を体験する事を重視しているのでしょうか?」
老僧「その通りだ。なかなか良い事を言うようになってきたじゃあないか!」
小僧「わーーい、師匠に褒めてもらえました! やっぱりボクはやれば出来る子なんです、エッヘン!」
老僧「因みに、人が悟ると、自分の身体を自分のものとは思えなくなる。肩書や経歴はおろか、記憶さえも自分のものとは思えなくなる。それは自己と言うパーツの組み合わせから解放される瞬間だ。そして、それ以降はあらゆる概念が存在意義を失ってしまう。つまり、概念から自由になるのだ。」
小僧「それは自分にも実体が無いという事ですか?」
老僧「その通り。これが自分だと言えるものなど、初めから存在しない。魂と呼ばれているものでさえ、自我と記憶と意識の組み合わせに過ぎず、そこに個を識別する要素は存在しないのだ。なのに、人間は何かにつけて根拠らしきものを目聡く見つけて、自分という存在を認識したり、〇〇は自分のモノだと主張し始める。」
小僧「それが本来無一物とか、無我という事ですか・・・?」
老僧「その通りだ。今日は冴えているな!」
小僧「・・・でも、ボクはまだ悟っていません。師匠の話を、頭でしか理解できないんです。」
老僧「今はわしの話を体に通すだけで良い。それ以上は望み過ぎというものだ。」
小僧「はぁ・・・ボクって何なんだろ?」
老僧「それこそ歴代の覚者達が、全世界の人々に問うてきた事だよ。」
小僧「ボクとは何か・・・何がボクをボクたらしめているのか・・・。ああ、ダメだ。頭を使ったら、急におなかが空いてきました!」
老僧「わははは! 腹が減っては戦は出来ぬと言うからな、とりあえず飯にしようか。」
小僧「はい、師匠!」
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