
念仏禅とは何か?
江戸初期、日本に渡来した臨済僧・隠元隆琦(いんげん りゅうき)禅師が開いた黄檗宗は、しばしば「念仏禅」と呼ばれます。黄檗宗では坐禅とともに念仏が重んじられ、禅と浄土を対立させない実践が行われました。
禅は観る道であり、念仏は称える道と考えられがちですが、実際には念仏が禅の内にあり、禅が念仏の内にあります。
この歴史的事実は、念仏を単なる救済手段としてだけでなく、より広い視野で読み直す可能性を示しています。本稿では、その読み直しを実相念仏(じっそう ねんぶつ)という視点から試みます。
黄檗宗の寺院では、坐禅、読経、木魚に合わせた称名念仏が併存しています。特に特徴的なのは「南無阿弥陀仏」の名号を、皆で声を揃えて繰り返し唱える集団念仏です。
しかもそれは、浄土宗のように往生を専ら願う形とは限らず、念仏が坐禅と同様に、修行の中核に置かれています。禅でありながら、念仏を退けない。むしろ念仏を通して心を調え、念仏を通して一心に帰す。これが黄檗宗の念仏禅です。
この実践形態は、中国臨済禅の流れの中にある禅浄双修(禅と浄土の兼修)の系譜に属しています。
何故、禅で念仏を唱えるのか?
中国では禅と念仏は対立しておらず、念仏は散乱を鎮める行、心を一処に集める方便、仏を観ずる契機として理解されていました。念仏は外に向かう祈願ではなく、
心のはたらきを整える実践として扱われていたのです。
黄檗宗はその伝統を、日本にそのまま持ち込みました。つまり、中国では念仏は禅に対立するものではなく、禅の内にある行だったのです。
坐禅は静的に心を調え、念仏は動的に心を一にする。いずれも分別を増やすためではなく、収めるためにある訳です。この意味で、黄檗宗の実践は「念仏禅」と呼ぶに相応しいものだということが分かります。
実相念仏
念仏は長い歴史の中で、さまざまな理解のされ方をしてきました。大きく分ければ、称名念仏・観想念仏・実相念仏という三つの方向があるのですが、以下では、そのうち実相念仏という立場から、念仏を捉え直してみます。
因みに、称名念仏は阿弥陀仏を称え、帰依する為のものであり、観想念仏は阿弥陀仏や浄土を観ずる行法です。この二つは浄土教の寺院で学ぶのが筋なので、本稿では割愛します。
問題なのは実相念仏です。これは救済を請う言葉や、観想の対象ではなく、実践そのものの現前として唱えるものです。それは境地を誇るものでも、体験を規定するものでもない。念仏を、念仏としてそのまま置く。
黄檗宗の念仏禅は、そのような読みを許す歴史的前例です。

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