悟りとは何か?
仏教では「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の真理(三法印)に目覚める事を悟りと言います。禅の世界では「自己の本性を見る(見性)」事を悟りと言い、スピリチュアルの世界では「ワンネス」や「ノンデュアリティ」といった真理を腑に落とす事を悟りと言います。
これだけ様々な定義があると「どれが本当なのか?」と迷ってしまいますが、実は言い回しが違うだけで、全く同じ事を言っています。そもそも「悟り」は表現する事の出来ないもので、言語などで表現した瞬間、全くの別物に変化します。禅ではこれを「言語道断(ごんごどうだん)」と言います。
悟りとは、三法印や、見性や、ワンネスや、ノンデュアリティといった言葉で表現する前の「それそのもの」を言い、坐禅は「それそのもの」を知る為の手段の一つです。
悟りの階梯
仏教には釈迦世尊が定めた「悟りの階梯」があり、その階梯には「四向四果(しこうしか)」や「四双八輩(しそうはっぱい)」と名が付けられています。禅者の中には、究極の悟りである「阿羅漢果(あらかんか)」しか認めない人も居ますが、釈迦直伝の上座部仏教では「悟りには階梯がある」と認識されています。
四向四果 (しこうしか)とは、原始仏教や部派仏教における修行の階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと。四双八輩ともいう。果とは、到達した境地のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。
原始仏教・部派仏教では、阿羅漢果は修行者の到達しうる最高位であり、それ以上に学ぶ必要が無いので阿羅漢果を無学位といい、阿羅漢果に達した者を無学という。四向四果のうちで阿羅漢果未満の預流果・一来果・不還果を有学位といい、阿羅漢果未満の聖者(七輩)を有学という。
Wikipedia 四向四果
預流向(よるこう)
欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じつつあり、苦・集・滅・道の四諦(したい、四聖諦とも)を観察する段階です。
預流果(よるか)
見道の完成であり、無我を体験する事で、五下分結と呼ばれる5つの煩悩の内、有身見、疑、戒禁取(三結)の煩悩を滅しています。預流果に悟ると、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちる事は無くなり、欲界と天界を最大で七回輪廻転生する内に、阿羅漢果に悟ると言われています。
一来向(いちらいこう)
四聖諦を観察する事を繰返していく「修道」の段階です。欲界の修道の煩悩を9種に分類したうちの6種の煩悩を断じつつあります。
一来果(いちらいか)
欲界における九種類の煩悩の内6つを断ち切る事で一来果に悟る事となり、五下分結の貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の煩悩が弱まります。一来果に悟った者は、修行を完成させる為に、もう一度だけ人間に生まれ変わると言われています。
不還向(ふげんこう)
一来果で断じきれなかった五下分結の貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の煩悩を、完全に断ち切ろうとする階梯です。
不還果(ふげんか)
五下分結の貪欲と瞋恚を断じる事に成功しましたが、まだ五上分結(色貪・ 無色貪・慢・掉挙・無明)の煩悩が残っています。仏典では、二度と人間には生まれ変わる事は無いとされています。
阿羅漢向(あらかんこう)
真の悟りを得る為に、五上分結の煩悩を断つ修行をする階梯です。
阿羅漢果(あらかんか)
阿羅漢(アルハット)は仏教における最高の悟りを得た「非在なるもの」であり、尊敬されるに相応しい聖者だとされています。五下分結・五上分結の煩悩を完全に滅却している為、その智慧は深く、人間的にも完成しています。仏弟子は皆、この境地を目指して修行します。
頓悟と漸悟
頓悟(とんご)とは一発で阿羅漢果に悟る事を言い、漸悟(ぜんご)は段階的に悟りが深まっていく事を言います。釈迦世尊は「悟りは徐々に完成する」と認識して四向四果を説きましたが、当の本人はいきなり阿羅漢果(無上正等覚)に到達しています。
禅の一派である曹洞宗は頓悟しか認めませんが、同じく禅の一派である臨済宗は漸悟を認める立場のようです。しかし、認めているのは四向四果ではなく、見性(けんしょう)と大悟(だいご)の二つだけです。
釈迦世尊、達磨大師、道元禅師のような頓悟だと、大悟と見性はイコールとなりますが、段階を踏む漸悟だと階梯によって見える性(さが・本性)が変わります。とは言え、階梯によって悟りの内容が変わるのではなく、悟りの内容が部分的(四分割?)になるようです。
「覚醒」について
スピリチュアル界隈における「覚醒」の定義は曖昧ですが、概ね預流果から一来果までを「覚醒」と呼び、不還果から阿羅漢果までを「悟り」と定義しているように思えます。
灰身滅知(けしんめっち)
灰身滅知は上座部仏教が理想とする、冥想修行によって煩悩を滅却し尽くす悟り方ですが、大乗仏教はこれを「小乗の悟り」と批判しています。個人的には「煩悩を滅し尽くせば悟れる」という見解と「無我を体験すれば煩悩が滅する」という見解の衝突に思えます。
涅槃(ねはん)
此あれば彼あり、此なくば彼なし、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。この世の全ては因縁によって生じるものであって、悟りと迷いの関係も例に漏れません。悟りを捨てて(超えて)至る二元対立の無い静寂の境地を涅槃(ニルヴァーナ)と言います。
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