私説・庭前柏樹(ていぜん はくじゅ)

 

むかしむかし、ある高名な和尚に「達磨大師が西から来た意味とは何か?」と尋ねた僧侶が居た。その時、高名な和尚は「そこの庭の柏の木だ」と答えたそうな。果たして高名な和尚は、僧侶に何を伝えたかったのだろうか?

 

 

老僧「・・・とまあ、これが無門関・第三十七則の庭前柏樹(ていぜんはくじゅ)という公案のあらすじだ。」

小僧「あっ、この公案ならボクも知っています! 実は高名な和尚さんは、既に恍惚の人になっていたという話ですよね!」

 

 

老僧「あのなぁ、そんな話が公案として伝わっていると思うか?」

小僧「あれ? 諸行無常・無常迅速とか、悟った人でも老病死は避けられないという話じゃないんですか!?」

 

 

老僧「それだと『メシはまだか?』と答えても構わないよな?」

小僧「その答え方だと美しくないからダメです!」

 

 

老僧「ハァ~・・・これまでで番酷い答え方だな。何だか悲しくなってきた。」

小僧「えっ、そこまでダメな答え方でしたか?!」

 

 

老僧「ああ、最悪だよ。」

小僧「ガーン!」

 

 

老僧「せめて『庭の柏の木になりきっている』とか『あるがままの柏の木が真理そのもの』みたいな事を言って欲しかった。」

小僧「え!? いや、でもそんな悟ったような事は、今のボクには言う資格が無いので・・・。」

 

 

老僧「それがお前の長所だな。いつだって本音で話すし、屁理屈を捏ねたりもしない。」

小僧「はい! 素直さがボクの取り柄(とりえ)ですから!」

 

 

老僧「そうだな、本当にそうだ。お前は他の小賢しい連中とは違う。それだけが救いだよ・・・。」

小僧「師匠、今日はどうしたんですか? 何だか鬱っぽくないですか?」

 

 

老僧「わしも人間だから、気分が落ちる事くらいあるさ。だが大丈夫だ、気分は気分でしかないからな。」

小僧「気分は気分、ですか。」

 

 

老僧「そうとも。辛い事は辛くて良いし、悲しい時は悲しくて良い。それを無理してハッピーな気分に転換する必要も無い。わしにとっては、ネガティブな感情も大切なものなのだ。」

小僧「ネガティブな思いも大切にするという話は、初めて聞きました。」

 

 

老僧「全ては必要があって備わっているものだからな。だからと言って執着するのは良く無いが。」

小僧「確かにネガティブな気分にドップリ浸るのは良くないですよね!」

 

 

老僧「そこまで行くと自己憐憫や自己陶酔になるな。」

小僧「何だか精神を病んでいる感じがします!」

 

 

老僧「精神の健全さや、人としての正しい在り方を突き詰めて考えると、極端な考え方そのものに忌避感が出てくる。例え、それが何であろともな。」

小僧「それがお釈迦様が中道(ちゅうどう)を説いた理由でしょうか?」

 

 

老僧「そう考えても間違いでは無いと思うぞ。実際、経典でも常見断見といった偏見から離れる事が十二縁起を悟る道だと説かれているしな。」

小僧「逆を言うと、偏見があると中道から外れてしまうという事でしょうか?」

 

 

老僧「その通りだ。だから物事を正しく見ようとする事(正見)が修行となり、正しく見る為に正しい行いが必要になってくる。」

小僧「あっ! それが八正道(はっしょうどう)ですか!!」

 

 

老僧「禅では八正道を実践しろとは言わないが、その教えはキチンと盛り込まれている。大乗仏教とはそういうものだし、だからこそ禅は『安楽の法門』と言われているんだよ。」

小僧「正直、修行は厳しいですけどね(笑)」

 

 

老僧「安楽の法門と言ったのは道元禅師だが、それは楽に悟れるという意味ではなく、厳しい修行を乗り越えた者の最終意見なんだよ。」

小僧「うーん、終わり良ければ全て良しって感じなのでしょうか?」

 

 

老僧「道元禅師の境地は、道元禅師にしか分からんさ。」

小僧「そ、そうですよね・・・。」

 

 

老僧「仏教の戒律は厳しいが、それは仏道を歩む者が踏み外さないように定められたものだ。逆を言うと、戒律が無ければ誰もが簡単に道を踏み外してしまうという事になる。」

小僧「確かにボクたちの煩悩はいつも激しく燃え盛っていますし、現世には欲望を刺激する為の誘惑が多いです!」

 

 

老僧「テレテレと我流で修行するのは楽かも知れんが、そんな温いやり方では悟りに手が届かない。煩悩や誘惑との戦いは甘くないし、時には無知と未熟さ故の過ちも犯す。真理そのものは単純だが、そこに至るまでの道は実に険しい。」

小僧「は、はい・・・。」

 

 

老僧「庭前柏樹の公案にしてもそうだ。祖師西来意を尋ねられ、庭の柏樹(ビャクシン)と答える。それは真理は目前にあるという意味だ。そしてその事実に気づく為に、長い長い修行の道がある。」

小僧「気づき、ですか・・・。」

 

 

老僧「修行の道とは円相(えんそう)だ。ぐるっと一周回って同じ所に戻ってくる。だが、戻ってきた時に見る柏樹は真理を体現する存在になっているし、自己と柏樹の境界も無くなっている。」

小僧「・・・あの、師匠。先ほどはすみませんでした。本当にバカな事を言ってしまって。」

 

 

老僧「いいさ。我を忘れるという意味では、大悟した覚者も、恍惚の人と大して変わらんよ。」

小僧「いやいやいや、流石に同じでは無いですよ!」

 

 

老僧「わしに言わせれば、赤ん坊も、恍惚の人も、悟達者も、庭の柏樹も、野に咲く花も、道端の石コロも、そう大して変わらんぞ。何せ、全ては一つであり、全ては真理そのものだからな。」

小僧「へっ?!」

 

 

老僧「ついでだから言っておくが、修行の道とは自我の葬送に他ならない。だから自我を葬り去るだけの確固たる理由や動機を持たない者は悟れないし、そもそも悟る必要が無い。」

小僧「自我を葬る・・・。」

 

 

老僧「そこまでする者は、自我を愛し抜いてその役割を全うさせたか、自我の悪性を知り尽して心底から嫌い抜くようになったかのどちらかだ。」

小僧「ず、随分と極端ですね・・・。」

 

 

老僧「そうだな、確かに極端だ。だが、この両極端を振り子のように何度も行き来しなければ、誰も自我を捨てようなどとは思わない。」

小僧「清浄な境地や、心安らかな人生を望むだけではダメなんでしょうか?」

 

 

老僧「それだと振り幅が小さ過ぎて、自我を捨てるまでには至らない。庭の柏樹の成長と変化を見て楽しむだけでも、それなりに生きていけてしまう。」

小僧「それは悪い事・・・ではないですよね?」

 

 

老僧「もちろんだ。達磨大師が西から来たのと同じで、普通の人生が悪いものである筈が無い。それは良し悪しの問題ではなく、自我を葬らねば救われないほどの大きな苦が有るか、無いかの違いだ。」

小僧「えっと、普通の人と達磨大師の人生では、だいぶ違うと思うのですが?」

 

 

老僧「そう変わるものではないさ。まあ、普通の人よりは達磨大師の方が、さながら庭の柏樹のように無心に、あるがままに生きたとは思うがな。」

小僧「わ、分かるような、分からないような・・・難し~~~~い!!」

 

無門関 一覧
無門関とは 無門関とは、中国臨済宗・楊岐派の僧侶である無門慧開(1183~1260)によって編纂された、公案問答集の事です。第48則までありますが、その理由は不明であり、公案の難易度順にもなっていません。 (function(b,c,f,g...

 

コメント

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