禅的ミニマリズムとは何か?

身も心も軽くする

勉強や仕事で忙しい日々を送っていると、どうしても部屋の掃除が行き届かなくなったり、いつの間にやら増えている家財道具の始末に困るようになっていきます。これは消費社会に生きる我々の宿命みたいなものです。

所有物があればあるほど片付けや掃除に手間取りますし、物で溢れかえった部屋に居ると精神的に落ち着きません。その事に気づいた聡明な人達は、いわゆる「断捨離」を行って所有物を整理し始めます。

一旦、所有物を整理し始めると、余りにも不要な物が多い事に誰もが驚きます。あると便利と思って買ったけど一度も使った事が無いとか、箱から出した事すら無いものが次から次に現れて、何でこんなに無駄遣いをしてきたのかとゲンナリする訳です。

 

断捨離を行ってシンプルになった部屋に住んでいると、あれもこれも実は無くても何とかなるのではないか?と考えるようになり、やがて少ない所有物を上手く使いこなす方法について考えるようになっていきます。

その末に辿り着くのが「引き算の美学」であり、ミニマリズムというスタイルです。

ミニマリズムのスタイルは人それぞれですが、根底にあるのは「心地よさを求める姿勢」です。不要な所有物を捨てるのは、大切な事に使う為の時間を増やしたり、無駄遣いやお金の心配などのストレスからの解放を求めての事です。

 

どのようなスタイルに「心地よさ」を感じるかは本人の自由です。和風、洋風、北欧風、またはアジア風と様々なスタイルがあって然るべきですが、その中の一つである和風を突き詰めていくと、根本に茶道の「侘び・寂び」の精神がある事が分かってきます。

茶道の歴史は、建仁寺を開山した栄西禅師(ようさい ぜんじ)が中国大陸から禅の教えと共に、茶葉と作法を持ち帰った事に始まります。その後、一休宗純禅師から禅を学んだ村田珠光が「侘び茶」を創始し、千利休が完成させ、今に至ります。

侘びとは簡素・質素の中に内面的な豊かさを求める事であり、寂びとは汚れ古びたものの中に美を見出す事を言います。禅と茶道に流れる「侘び・寂び」の精神は「引き算の美学」の極みであり、まさに日本文化の真骨頂であると言えましょう。

 

 

旅の雲水は極限のミニマリスト

栄西禅師が中国大陸で学んだ禅は、厳しい坐禅修行によって悟りの境地を目指す教えです。禅宗の修行僧は正師を求めて諸国を行脚する為、流れゆく雲や水に例えて「雲水(うんすい)」と呼ばれています。

旅の僧侶である雲水は、極限のミニマリストでもあります。彼らの所有物と言えば、三衣一鉢(さんねいっぱつ)と言われる大・上・中の衣と、自鉢(じはつ)や応量器(おうりょうき)と呼ばれる重ね椀くらいのものです。

実際には頭陀袋や袈裟文庫などのバッグ類の中に、仏教経典や剃髪用のカミソリなどの日用雑貨を入れて持ち歩いていますし、座蒲(ざふ)という坐禅用の座布団も所持していたりするのですが、それでも現代人の我々から見ると、余りにも所有物が少ない事に驚かされます。

 

基本的に禅僧は托鉢で食を賄(まかな)うので、鍋釜などの調理器具は持っていません。ただ、昔は粗末な庵や洞穴などに定住する禅僧も居て、その場合は鉄鍋一つだけで煮炊きを行っていたようです。

現代でも禅僧達は修行として托鉢を行っていますが、それによって食を得ている訳ではないですし、旅先で野宿をするのも難しい時代なので、寺から寺へと流れて修行を積むスタイルに変化しているようです。

因みに、仏教が生まれたインドでは、数は相当に減っているものの未だにヨーガの行者である「サドゥー」が社会的に許容されていて、オレンジ色のボロを纏って乞食や野宿で生活するという、昔ながらのスタイルで修行の日々を送っています。

 

 

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