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私説・南嶽磨磚(なんがく ません)

2023年12月26日古則公案・SS古則公案・SS

 

むかしむかし、馬祖道一(ばそ どういつ)という禅僧が野外で坐禅をしていると、師の南嶽懐譲(なんがく えじょう)が「何の為に坐禅をしているのか?」と問うてきた。馬祖が「仏になる為に坐禅をしています」と答えると、南嶽は黙って近くにある瓦を拾って一心に磨き始めた。

馬祖が「何をしているのですか?」と聞くと、南嶽は「瓦を磨いて鏡にしている」と答えた。馬祖が「瓦を磨いても鏡にはなりません」と言うと、南嶽は「坐禅をしても仏にはなれない」と答えた。

 

老僧「・・・とまあ、これが南嶽磨磚(なんがく ません)という公案のあらすじだ。因みに、磨磚とは瓦を磨くという意味だ。磨甎とも書く。」

小僧「師匠、坐禅で仏になれないなら、何をすれば仏になれるんですか?」

 

老僧「うむ。これはな、仏になろうとするのではなく、仏で居れば良いという話なんだよ。」

小僧「ほとけで、いる・・・ですか?」

 

老僧「そうとも。白隠禅師の坐禅和讃が『衆生本来仏なり』という一文から始まるのは、その為だ。」

小僧「坐禅のレベルが上がったら、ぱあって何かが開いて、仏になるんじゃないんですか?」

 

老僧「そのように考えている人は多いようだが、違う。仏は『目指す』ものや『なる』ものではない。ここは本当に重要な部分だから、絶対に間違ってはいけない。」

小僧「そ、そんなに大事な所なんですね・・・(汗)」

 

老僧「人間は成長して何かになろうとしたがるし、それはそれで大切な考え方ではある。だが、禅は成長を求める道ではなく、人間本来の在り方に還る道なのだ。」

小僧「本来の在り方、ですか。」

 

老僧「悲しいかな、人間は本来の在り方を忘れがちだ。社会の荒波に揉まれて悩み、苦しみ、自己を喪失してしまう人の何と多い事か。」

小僧「生きるのって大変ですよね・・・。」

 

老僧「欲望に忠実な人は、自己を取り戻す必要が無いから、禅の道を歩もうとは思わない。そういう人達に必要なのは、よりディープな闇と狂気だ。とことんまで落ちれば、いつか自己喪失の過ちに気づく日が来るかも知れない。」

小僧「そうまでならないと分からないものなんでしょうか。何だか哀れです・・・。」

 

老僧「自ら望んで欲に狂っているのだから止めようが無いし、中途半端に止めたり、力で抑えつけても逃げるだけだ。愚者とはそういうものだから、情けをかける必要も無い。」

小僧「環境の所為でワルになったとか、ワルにこそ支援と社会復帰が必要だと訴える人も居ますけど・・・。」

 

老僧「基本、わしは更生という選択肢は無いと思っている。何故なら、本当に己の罪を自覚した人間は、贖罪の道しか歩めなくなるからだ。仮に、お前が不慮の事故で他人を殺めたとして、刑務所から出た後に全てを忘れて人生をやり直せると思うか?」

小僧「無理です! そんな事になったら、ボクはもう人生を楽しめません!!」

 

老僧「不慮の事故でもそうなるのだ。なのに、悪意を以って他人を害した者が刑に服しただけで、幸福を手にしようなど図々しいにも程がある。誠実さと罪悪感のセットは重苦しいが、それをキチンと背負うのが人間の義務だ。」

小僧「な、なんともキツい話ですね(汗) ボクはてっきり、慈悲心についての話になると思ってました・・・。」

 

老僧「被害者の気持ちを考えたら、贖罪は命懸けになるに決まっている。飽くまでも許しは請うものであって、何年か経てば許されるとか、忘れてもらえるようなものでは断じて無い。だが、わしは悪党が心底から許しを請う姿など見た事が無い。」

小僧「許しは請うもの、ですか。」

 

老僧「醜悪な開き直りや、形だけの謝罪ならウンザリするほど見てきたけどな。その中には『許してくれないなら謝る意味も無い』などという意味不明な詩を吐く大馬鹿者も居たぞ。」

小僧「う、うわぁ・・・どういう思考回路なんですか、それ(汗)」

 

老僧「殺人鬼から仏弟子となったアングリマーラ(指の首飾り)ことアヒンサーや、今昔物語の19巻、第14話の主人公・源太夫のように、死をも厭わぬ贖罪の道を歩むなら話は別だが、そこまでする者はまず居ない。ならば許す意味も無かろう。」

小僧「師匠は罪に対しては本当に厳格ですね~・・・正直、おっかないです!」

 

老僧「わしは『真の正義とは何か?』と考え抜いた末に、悟りという答えに到達したからな。どうしてもこの手の話には厳しくなる。」

小僧「え? 坐禅で悟ったんじゃないんですか?」

 

老僧「おいおい、坐禅で悟れる訳が無いだろう(笑)」

小僧「ええええ?! じゃあ、何の為に坐禅をするんですか!?」

 

老僧「坐禅とは『何にもならない事』だ。だからこそ『本来の自己とは何か?』という問いへの答えになる。何故なら、本来の自己とは『何かになろう』としているうちは、決して見えてこないものだからだ。」

小僧「曹洞宗は『坐禅をする姿そのものが仏の姿』だと説いていますけど、その話はどう理解すれば良いんですか?」

 

老僧「他宗の教えについて、分かったような事を言いたくはないな。ただ、わしの立場だと『仏とは何か、しっかり考えろ』と言わねばならん所ではある。」

小僧「仏とは何かを考え続けたら、仏で居られるようになるんですか?」

 

老僧「思いつく限りの創意工夫を凝らし、矢折れ弾尽きた末に、ひょんな事から『仏とは何か』を悟るのさ。仏とは『あるがままの自己』そのものであり、そうと悟れば仏のままで居る方が自然になる。」

小僧「あるがまま、ですか。」

 

老僧「無為の真人(むい の しんにん)という言葉がある。その逆は有為造作(うい ぞうさく)だ。『何もしない』とはどういう事かと考えるも良し、自分が無意識レベルで何をしているかを調べていくも良し。どちらのやり方でも、最終的には悟りという答えに辿り着く。」

小僧「えっと、ひょっとして坐禅を組まなくても悟れるんですか?」

 

老僧「わしに言わせると、本当に坐禅が必要になるのは、むしろ悟った後だな。悟りを磨いて鏡のようにツヤピカにするのが本物の坐禅であり、悟後の修行というものだ。されど、坐禅は一日にしてならず。悟る前からキチンと修行しておくべきだ。」

小僧「う~ん、話が難しくて良く分からないけど、とりあえず坐禅をします!」

 

老僧「今はそれでいいさ。今、やれる事をやるといい。」

小僧「はい、師匠!」

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Posted by 清濁 思龍