令和四年の始まり

2022年1月12日2022年

今週の動向

あけまして おめでとうございます。今年も「閑居の窓」をよろしくお願いします。

 

本年の修道記のアイキャッチ画像は、京都・萬福寺の巡照板にしました。板に書いてある言葉は六祖壇経の偈(げ)と言って「謹白大衆(きんべだーちょん) 生死事大(せんすすーだ) 無常迅速(うーじゃんしんそ) 各宣醒覚(こーぎしんきょ) 慎勿放逸(しんうふぁんい)」と読みます。

意訳すると「謹んでみなさまに申し上げます。生死の問題ほど大切な事は無く、時は無常にして迅速に過ぎ去ります。みなさまもその事をよくよく自覚して、日々を無為に過ごさないようにしましょう」という感じですかね。

萬福寺は日本に伝わる前の中国臨済禅をそのまま持って来た宗派なので、お経の類は全て唐韻(とういん)という古い中国語で誦(しょう)します。何故なら、開祖の隠元隆琦禅師は、中国からの渡来僧だったからです。

 

・・・という訳で、2022年の元日は萬福寺に行ってきました。最後の写真は世界でもトップクラスの致死性を誇る恐怖の料理「餅入り雑煮」です。

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翌日も管理人は「餅入り雑煮」に挑み、見事に勝利を収めて生き残りました。

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人間は自身の生死の問題から目を背けると、どうしてもダラダラと時間を過ごしてしまうものです。そして怪我や病気などで急に命を失ったり、ボチボチ生き永らえて老いを実感し始めた頃に、まるで夏休みの最終日みたいに人生への焦りや迷いを感じ始めたりする訳です。

神社仏閣に参拝する事のメリット、つまり仏教的な御利益や、神道的な御神徳とは何なのかと言いますと、これは「道開き」の一言に尽きます。道開きとは「停滞」が解消されて、良くも悪くも「事が進む」という事です。

ですから「パワースポットに行ったら、むしろ不幸になった」という事も普通にあります。だって、地球はアナタの為に回っている訳では無いし、良い事も悪い事も含めて「人生」なのですから。神仏に対して「自分にとって都合の良い事だけ起きて欲しい」と願うのは、単なるワガママに過ぎません。

 

意外に思う人も居るかも知れませんが、初詣で「今年も良い年でありますように」と祈念するのは、実はちっとも良い事では無いのです。神仏の立場からすると「ハイハイ」という感じですし、大した対価も出さずに「災難消除という高度な願い」が叶う筈もありません。

しかし「今年は〇〇をしたいので、それに繋がる〇〇という切っ掛けが欲しい」というような具体的な願(がん)のかけ方をすれば、かなりの高確率で叶います。もちろん、運命に抗うような無理な願いや、欲望剥き出しの醜悪な願いは叶いませんけどね。

因みに、管理人は何時、何処の神社仏閣に参拝しても「今後もよろしくお願いします」と御挨拶をするのみです。そしてその願いは叶い、今や全国の神社仏閣に参拝して回ったり、頻繁に霊夢を見るようになりました。

 

 

死生観について

巡照板の六祖壇経と関係する話ですが、今の日本は「死=考えてはならない事」と捉える極端な考え方が主流になっています。しかし、生と死は相対関係にあるものなので、キチンと死を見つめないと、生を存分に活かす事は出来ません。

この死生観の歪みが「コロナ禍」によって最悪の形で噴出してしまい、所謂「自粛警察」によるヒステリックで無自覚なモラハラが横行した所為で、若者の失業、貧困、自殺という悲しい流れが出来てしまいました。その事を反省するにはもう遅く、更に被害が拡大しても、誰も、何も、変わりません。

ただ、病と死が間近にある現在の状況は、生死事大という禅の精神を腑に落とすチャンスでもあるので、本気で自己変革を目指すには良い年だと考える事も出来ます。

 

むしろ「今年で変われないなら、もう一生、自分は変われない」くらいの気持ちで過ごす方が、有意義に生きられるのではないでしょうか。何せ、コロナに罹患せず、失業もせずに生きていられる保証など、私も含めて何処の誰にも無いのですから。

世界中を人が行き来するグローバルな時代ですから、ウイルスを完全にシャットアウト出来る筈も無く、今後もコロナ禍のような大騒動が起きる可能性は非常に高いと言わざるを得ません。

過剰なまでに病や死を恐れれば、自己の人生を生きられなくなり、他人に優しくするだけの心の余裕も持てなくなります。果たして、そんな人生を豊かと言えるでしょうか。仮に隔離とワクチンでコロナ禍を乗り越えたとしても、日本全体の死生観がアップデートされるとは思えません。

 

誰かが死の脅威を垣間見る度に「責任者は誰だ!」と騒ぎ、実際に人が死ねば「誰の所為だ!」と騒ぎ、有無を言わさず「お偉いさん」を袋叩きにして引き摺り下ろし、とりあえず留飲を下げる。こんな真似を延々やった所で、一体、何が前に進むと言うのでしょうか?

今の日本人は民族的な生真面目さが仇になって、一億総クレーマーと化しつつあります。誰もが最低限の料金で最高の品質を要求したり、理不尽なクレームにも誠実な対応を求めるようになっています。本当に日本という国は、面倒臭くて生き辛い国に成り果てたものです。

日本国を再生させようとしたら、まず国内に蔓延る病的な価値観を一掃する必要があります。それには国全体の死生観をアップデートする必要があるのですが、そのアップデートに必要不可欠なのが禅(悟り)の視点なのです。

 

ただし、禅の視点は飽くまでも究極の視点であって、最高の視点ではありません。もし世界中の人々が禅の精神を腑に落としたら、誰も人類という種族や、その文化を存続させようとは思わなくなってしまいます。

何故なら「一日作(な)さざれば一日食らわず」とか「死ぬる時節には、死ぬがよく候(そうろう)」というのが禅の精神であり、その精神を全人類が腑に落とそうものなら「人類が滅ぶなら滅べば良い」という価値観に染まり切ってしまうからです。

私は人類特有の「エゴの働き」がどうしても好きになれないし、エゴの悪癖を克服し得ないからこそ人類は「地球を蝕む害獣」の立ち位置に甘んじていると考えています。しかし、だからこそ人類が滅亡する直前まで、エゴを克服した先人の教えを継承していくべきだと思うのです。

 

人類と他の動植物との最大の違いは、死生観を持てるか否かにあります。逆を言うと、キチンとした死生観と、そこから生じる美意識を持たない人間は、動植物以下の迷惑な存在でしかありません。

そんなどうしようもない生物に「人」としての権利を与えても、いいように悪用されるのがオチです。これを「猫に小判」と言わずして、何と言うのでしょうか。

こういう事を言うと「自分でものを考えられない重度の知的障碍者は、動植物以下の存在なのか?」と噛みついてくる人が出て来るのですが、今は障碍の話なんかしてませんからね? 絶対に矛盾せず、あらゆるシチュエーションに対応できる話なんかありませんからね?

 

話を戻しますが、日本人の死生観というと「菊と刀」に代表される武士道的な死生観を連想しがちですが、我々の根底にあるのは武士道ではなく、自然から来て自然に還るという神道由来の御霊(みたま)の思想です。

本質的に御霊の思想は「無我」と説く仏教とは相性が悪く、その中でも禅宗の死生観とは相容れないものがあります。何せ、禅的には「御霊など無い」とか「御霊と呼ばれているものにも実体は無い」というのが最終意見ですから。

禅は悟りの境地から物申すので、決して優しくはありません。悟りの境地そのものは素晴らしいのですが、その境地を言語で正確に表現する事は出来ないので、どうしても教えを聞く者に対して無機質で枯れた印象を与えてしまいます。

 

死生観の豊潤さを問うのであれば、どうしようもない悪人や、死に瀕した病人でも救える浄土系の思想の方が上かも知れません。実際、仏教学者の鈴木大拙のように禅から念仏に関心の比重を移す人も居ますし、向令孝禅師のように真宗の教義に詳しい禅者も増えてきました。

ただ、現代人は誰もが科学的・学術的な視点を持つようになって、信仰とは距離を取り始めているので、浄土系の宗派が往年の勢いを取り戻す事は無いでしょう。

スピリチュアルは商業ベースで人受けするものの胡散臭過ぎるのが問題ですし、レイキのように禅から派生したヒーリングの体系も、スピと混合して胡散臭くなってしまいました。歌手やアーティストなどのカリスマ性を持つ人の中にも、スピの影響を受けて胡散臭くなってしまった人が居ます。

 

スピ系の致命的な欠陥は、根本となる死生観が曖昧だという所にあります。要は現世利益ばかりで、生き方や死に方への答えが無いんですよ。

スピの答えって、死んだら霊界に行くとか、輪廻転生して人間に生まれ変わるとか、ワンネスの輪に還るとか、何処かで聞いたような話ばかりじゃないですか。ノストラダムスの大予言とか、アセンションみたいな新しい主張もありましたが、どちらも大外れでしたよね。

自己啓発本や自己啓発セミナーという一般人?向けの向精神薬もありますけど、あの程度の尻叩きで人が変われるなら苦労はありません。それよりは大峰修験の「西の覗き」に参加したり、自分が土砂に生き埋めにされる瞬間をリアルに想像してみる方が、余程いい刺激になります。

 

個人的には、日本の死生観が歪んでしまった最大の理由は、薩長閥の「命は薄紙一枚」という狂った価値観と、戦勝国であるアメリカからの圧力と、戦後左翼の生命至上主義だと思っています。でもこれは「国の命運」としか言いようが無いもので、抗ったり阻止するのが不可能に近い事ばかりです。

日本列島は海に囲まれていた所為で、あまり外国からの侵略というものを経験していません。そのおかげで成熟した所も多々あるのですが、その反面、危機管理や思考の柔軟さに難があり、グローバリズムの波に乗り損ねました。まあ、本当は外国の真似をせず、独自路線を貫くべきだったのですが。

何にせよ、今年は我々日本人にとっての正念場になる筈ですから、当サイトとしても死生観についての厳しい内容の記事を書く事が増えると思います。それで人が離れていくなら仕方ないと割り切って、書くべき事を書いていく所存です。

 

2022年1月12日2022年

Posted by 清濁 思龍