悟りとは何か?
禅では自己の本性を見る(見性)事を悟りと言い、上座部仏教では諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の真理(三法印)に目覚める事を悟りと言います。スピリチュアル界隈のワンネスやノンデュアリティも、言い方が違うだけで内容は同じです。
禅では言語道断(ごんごどうだん)と言って、そもそも悟りは文字や言葉で表現する事が出来ず、言語化した途端に全くの別物に変化してしまうと説きます。つまり、見性も三法印もワンネスやノンデュアリティも、真理そのものではないと言う事です。
坐禅は真理そのものを体験する為の手段に過ぎず、サマタ・ヴィパッサナー冥想によって真理を体験する人も居れば、信仰や思考哲学の末に体験する人も居ます。まさに悟り方は人それぞれであり、それが宗派の別を生んでいます。
灰身滅知(けしんめっち)
上座部仏教の理想は、冥想修行によって煩悩を滅却し尽くす悟り方です。大乗仏教はこれを「小乗の悟り」と批判していますが、個人的には煩悩を滅し尽くせば悟れるという見解と、無我を体験すれば煩悩が滅するという見解の衝突に見えます。
頓悟と漸悟
頓悟(とんご)とは一度に全てを悟る事を言い、漸悟(ぜんご)は段階を踏んで深まる悟りの事を言います。釈迦世尊は「悟りは徐々に完成するもの」として四向四果を説きましたが、当の本人はいきなり無上正等覚に至っています。
曹洞宗は頓悟しか認めませんが、臨済宗は漸悟を認め、公案によって悟りに磨きをかけようとします。頓悟の見解は一つですが、漸悟は階梯によって見える性(さが・本性)が変わります。
一見、悟りの内容が変化しているように見えますが、実際には段階を踏んで視野が広まっていくという感じのようです。
四向四果の階梯
釈迦世尊が定めた四向四果の階梯は、四双八輩(しそうはっぱい)とも言い、預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果の八段階に分けられています。
果は到達した境地のことであり、向は特定の果に向かう段階の事とされています。最高位の阿羅漢果は無学位とも言い、それ以上に学ぶ必要は無いとされています。その為、阿羅漢果未満の七輩を有学とも言います。
預流向(よるこう)
欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じつつあり、苦・集・滅・道の四諦(したい、四聖諦とも)を観察する段階です。
預流果(よるか)
見道の完成であり、無我を体験する事で、五下分結と呼ばれる5つの煩悩の内、有身見、疑、戒禁取(三結)の煩悩を滅しています。預流果に悟ると、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちる事は無くなり、欲界と天界を最大で七回輪廻転生する内に、阿羅漢果に悟ると言われています。
一来向(いちらいこう)
四聖諦を観察する事を繰返していく「修道」の段階です。欲界の修道の煩悩を9種に分類したうちの6種の煩悩を断じつつあります。
一来果(いちらいか)
欲界における九種類の煩悩の内6つを断ち切る事で一来果に悟る事となり、五下分結の貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の煩悩が弱まります。一来果に悟った者は、修行を完成させる為に、もう一度だけ人間に生まれ変わると言われています。
不還向(ふげんこう)
一来果で断じきれなかった五下分結の貪欲(とんよく・貪り)と瞋恚(しんに・怒り)の煩悩を、完全に断ち切ろうとする階梯です。
不還果(ふげんか)
五下分結の貪欲と瞋恚を断じる事に成功しましたが、まだ五上分結(色貪・ 無色貪・慢・掉挙・無明)の煩悩が残っています。仏典では、二度と人間には生まれ変わる事は無いとされています。
阿羅漢向(あらかんこう)
真の悟りを得る為に、五上分結の煩悩を断つ修行をする階梯です。
阿羅漢果(あらかんか)
阿羅漢(アルハット)は仏教における最高の悟りを得た「非在なるもの」であり、尊敬されるに相応しい聖者です。五下分結・五上分結の煩悩を完全に滅却している為、その智慧は深く、人間的にも完成しています。まさに仏弟子が理想とする境地です。
涅槃(ねはん)
此あれば彼あり、此なくば彼なし、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。この世の全ては因縁によって生じるもので、悟りと迷いの関係もその例に漏れません。涅槃(ニルヴァーナ)とは、迷いも悟りも無くなった静寂の境地なのです。
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