自問自答が道を開く

我々の悩みは、殆どが人間関係の悩みです。そして人間関係の悩みには、必ずと言って良いほど「自我」が関係しています。しかし、自我は他人との距離感や、踏み越えてはならない一線の基準になるので、必ずしも悪いものではありません。

禅では「自我を捨てろ」と説きますが、それは既に自我の確立を果たした人に対しての言葉です。己自究明して無我という真理を明らめようにも、その自己が曖昧だと究明しようが無いのです。

未熟な自我は捨てようにも捨てられず、その未熟さによって人間関係を含む様々なトラブルを呼び込んでしまいます。ですから、まずは人としての情緒的成熟を果たし、その後で「脱自我」を成し遂げましょう。

 

情緒的成熟を果たすには、まず「自分は何が好きで、どういう経緯でそれを好きになったのか」を考察する事から始めましょう。人間は環境の産物なので、生まれつき、何の理由も無く、急に何かを好きになったり、嫌うようになったりはしません。

好き嫌いには必ず理由(学習)があり、その理由の集合体が「自己」なのです。自己とは毛玉のようなもので、毛玉をほどいていくと最後は消滅してしまいます。自己が消滅した後も自我は残り、その自我をほどき終えた時に、無我とは何かを悟るのです。

禅でもいきなり無我を悟る人は、まず居ません。古今東西、公案に参じた人は皆「ああでもない」「こうでもない」とあらゆる概念(自己)を解体していき、矢折れ弾尽きて降参した時に、ふとした事から真理に目覚めています。

 

古代中国の香厳(きょうげん)禅師は、庭の掃除で掃いた小石が竹に当たって音を発し、その音を聞いた時に真理を悟ったと言い伝えられています。この「香厳撃竹」の話は有名ですが、この故事から悟りのメカニズムを解明するのは困難です。

香厳禅師が庭掃除をしていた時に、どのような事を考えていたのかは伝わっていません。何故なら、誰が何を切っ掛けにして悟るかは人によって違うので、そういう部分まで伝える必要が無いからです。

でも、香厳禅師が「我を忘れて」真剣に考え事をしていたのだけは確かです。でなければ、悟りという現象が起きる事は無いからです。禅の道は「忘我の道」であり、道の人は「没入の天才」でもあるのです。

 

坐禅で養う禅定力(ぜんじょうりき)は、忘我と没入を助けます。でも、忘我と没入だけでは悟れません。南岳磨甎(なんがく ません)の公案は、その事実を指摘しています。悟りのトリガーになり得るのは、飽くまでも自我が関係するものだけなのです。

そして「好き嫌い」という判断の基準には、自我が最大限に関係してきます。誰しも好きな事には簡単に没入しますし、嫌いなものは全力で拒絶します。でも、自我が曖昧だと好き嫌いも曖昧になるので、忘我と没入が難しくなるのです。

坐禅の上達を望むなら、まずは坐禅を好きになることです。どうしても好きになれないなら、それは「向いていない」という事なので、心底好きになれる別の体系を探した方が早いです。

 

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